ラストマッチBACK NUMBER
<現役最終戦に秘めた思い(6)>
久保田智之「最後は打たれて辞めたかった」
posted2020/11/18 07:00
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
KYODO
2005年、阪神リーグ優勝の原動力となったリリーフトリオ「JFK」。その一角を担った“投げ過ぎた”投手が抱いた「悔い」の真意とは。
2014.9.22
ウエスタン・リーグ25回戦
成績
中日 3x-2 阪神(延長10回)
勝 岸本(2勝1敗)
敗 久保田(1勝1敗)
◇
「悔いは残っています」
2014年10月3日、阪神タイガースの久保田智之はネクタイ姿で引退会見に臨んだ。甲子園球場に隣接する球団事務所、早すぎる引退を余儀なくされた33歳の投手が言葉を詰まらせる姿に、会見場はしんみりとした空気に包まれた。
久保田は“投げ過ぎた”投手として世に知られていた。プロ野球史上、1シーズンにおいて最も多くの試合で投げた。50を超えれば鉄腕と言われる世界で、90試合を投げた。記録をつくった2007年だけでなく、2000年代半ばからの数年、ほとんど毎日のように投げていた。
タイガースの一時代を築いた豪腕は、それゆえに若くして壊れてしまった。そういう悲愴なイメージが観る側にはある。だからきっと久保田の言う「悔い」も、そこにあるのだろうと、多くの者が理解していた――。
久保田が投手としての終わりを悟ったのは、その年の9月だった。秋の気配が漂い始めた二軍の鳴尾浜球場へ球団幹部が訪ねてきた。それが、この世界において何を意味するのかは、よくわかっていた。
右肘痛に悩んでいた久保田はこの年の2月にメスを入れたばかりだった。夏前にマウンドに戻ったが、かつてのボールは投げられなかった。何よりも投げるたびに痛みが消えず、一軍に呼ばれることもなかった。