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ドラフト直後、18歳の松井秀喜が校舎の非常階段で漏らした悲哀 「僕、行かなきゃいけませんかね?」
posted2020/10/07 11:02
text by
渋谷真Makoto Shibutani
photograph by
Kyodo News
何とも言えぬ寂しそうなあの顔は、今でもハッキリと覚えている。そして18歳の少年は、確かにこう言った。
「僕、行かなきゃいけませんかね?」と。
1992年11月21日。新高輪プリンスホテルで、第28回ドラフト会議が開催された。当時、在阪スポーツ紙の駆け出し記者だった私は、石川県の星稜高校にいた。7、8月は担当球団を離れ、臨時の「松井番」。ゴジラと呼ばれた松井秀喜と、北陸に初めて深紅の大優勝旗を持ち帰りたいと燃える星稜を追っていた。石川県大会の試合があるたびに、大阪から金沢まで特急雷鳥に乗り、勝ち上がるチームと打ちまくるゴジラを記事にしてきた。
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順当に甲子園まで勝ち進み、あの明徳義塾戦も取材した。アルプススタンドから投げ込まれた無数のメガホンと、悲しそうに拾い集める部員の背中。怒号が飛び交う中、4番打者が5度目の打席でもバットを振らせてもらえなかった。1点が届かず、三塁側ベンチ前で相手の校歌を聴かされた。悲運の5番打者が、その先の人生でとてつもない重荷を背負うことになった。
異様なムードで始まった敗退のお立ち台で、松井少年は泰然と受け答えした。熱くなっていたのはむしろ記者の方であり、淡々と一塁に歩き続けた少年は、泣くわけでなく、明徳義塾の戦法をののしるわけでもなく。あの大物感こそが、惜敗を伝説にした。
本当に行きたいところは1つだけ
それから97日後に人生が決まった。プロには行くと決めていたが、本当に行きたいところは1つだけだということは、誰でも知っていた。まねたわけではないが、同じ右投げ左打ち。幼き頃、掛布雅之の31番をプリントしたシャツを着て、野を駆け回っていた。事前の指名決定あいさつでも、阪神だけテンションが違っていた。「佐野さんが来る! 佐野さんですよ!」と担当スカウトだった佐野仙好の名を連呼し、ほおを赤らめていた。