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史上最高のワールドカップはどの回だ?
前編・ブラジルは革命的だった。
posted2020/06/30 11:40
text by
エリック・フロジオ&バレンティン・パウルッツィEric Frosio et Valentin Pauluzzi
photograph by
L'Equipe
『フランス・フットボール』誌4月21日発売号はメキシコワールドカップ特集である。ディエゴ・マラドーナの大会と言われた1986年ではない。ペレのブラジルが3度目の優勝を果たし、ジュールリメ杯を永久保持することになった1970年の大会である。同誌はこの大会こそ「史上最高のワールドカップ」であったとしている。
大会の雰囲気と熱狂、名勝負の数々と記憶に残る様々なシーン、そして輝くばかりのブラジル代表……。それらのすべてがカラー衛星中継ではじめてヨーロッパに伝えられたのもこの大会だった。日本でも「三菱ダイヤモンドサッカー」が、1年以上かけて全試合を録画放送した。
そのメキシコワールドカップを、イタリアとブラジルのふたりの当事者、アレッサンドロ・マッツォーラとトスタンがビデオ対談で振り返っている。若い読者の方はピンとこないかも知れないが、恐らくはFF誌にしか発想も実現もできない、ちょっと驚きの企画である。
父親は《グランデ・トリノ》のキャプテンで、《偉大なバレンチノ》と呼ばれたバレンチノ・マッツォーラ。インテル・ミラノがチャンピオンズカップ(現在のCL)2連覇を達成した当時はエースストライカーだったマッツォーラはこのとき27歳。ゲームメイカーにポジションを下げ、もうひとりのゲームメイカーで'69年のバロンドール受賞者であったジャンニ・リベラとの間で、いったいどちらを起用すべきかという深刻な論争をイタリアで引き起こしていた。
一方のトスタンは、ジーコ出現以前に《白いペレ》と呼ばれた最初の選手だった。19歳で'66年イングランドワールドカップに出場し、23歳で迎えたこの大会では、ペレ、ジャイルジーニョ、ジェルソン、リベリーノら華麗な攻撃陣のつなぎ役としてインテリジェンスに溢れたプレーで世界を唸らせた。その後は目を負傷して'73年に引退。27歳の最盛期で迎えるはずだった'74年西ドイツワールドカップに出場できなかったのは、返す返すも残念なことだった。
対談を読んで思うのは、両チームの大会へのアプローチの違いである。ブラジルはフィジカルを強化し、イタリアはプレーをブラジル化することでメキシコの高地に対応した。それだけでも興味深いうえに、ふたりの口から溢れ出るのはこれまで私たちがほとんど知らなかった事実の数々であった。ふたりが語る50年目の真実を、存分に味わってほしい。
監修:田村修一