当日チケットで入ったアリーナ席。

　2003年、柔道世界選手権の開催地は大阪だった。井上康生を撮影するチャンスがやってきた。

　まだまだ私はフリーランスとして駆け出しだったが、そのときは仕事量が徐々に増え始めた時期だった。

「明日あいてる？」という急な仕事の依頼にも「大丈夫です」と応えて仕事を請け負っていた当時、ギリギリまでそれに備えながらも、そんな電話が鳴らないことを祈って、重量級の試合の前日に大阪行きの新幹線に飛び乗った。

　もちろん報道の撮影パスがあるわけではない。前売りチケットも買えなかったので、どんな環境で撮れるかもわからない。

　スポーツ写真の良し悪しは、どこから撮影するかで8割方決まってしまう。決勝の一本勝ちの瞬間が前のお客さんの頭で隠れてしまった、なんて事にならないことを祈った。

　仕事が少なくスケジュールが空いたのと同様、当日チケットも運良く1万円のアリーナS席の端っこが空いていた。迷わずそこに滑り込んだが、これが結果的に絶好の撮影ポジションになった。

　当時はフジテレビ系列の格闘技が人気を博しており、この日の大阪城ホールも同じ演出が施され、試合前の選手の待機場は暗幕に覆われてメインの客席からは見えないようになっていた。

　しかし、私のアリーナ席の端っこからは、試合会場に出る前の徐々に気持ちが昂ぶっていく柔道家たちの横顔を5mほどの距離で捉えることができた。

　そこに井上康生が現れるたびに、私はシャッターを切った。

シャッターを切ることさえためらう存在感。

　シドニーオリンピック金メダルの翌年、2001年全日本選手権で篠原信一を破って初優勝し、その後大会3連覇。翌年に控えた2004年アテネオリンピックでも金メダルの最有力候補で、日本選手団の主将にも選ばれた、まさに全盛期。

　前方一点を見つめ、わずかに身体を動かす姿は、泰然自若としながらも他を圧倒する気力が溢れ、無敵のヒーローそのものだった。

　もちろん声などかけられるはずもないが、黙ってシャッターを切ることさえもためらった。

　目の前にいる井上康生が、「すぐそこにいる」という現実を感じられなかった。

　井上康生を撮りに来たのにその存在に圧倒され、2、3度シャッターを切るたびに、彼から視線を逸らさずにはいられなかった。そう、その存在にビビっていたのだ。

【次ページ】　審判の間から撮った完璧な1枚。