イチ流に触れてBACK NUMBER
最多得票のイチローさえも脇役に。
カル・リプケンJr.、最後の球宴。
text by
笹田幸嗣Koji Sasada
photograph byGetty Images
posted2020/04/21 11:30
2001年のメジャー・オールスターゲームのファン投票で最多得票のイチロー。試合前には自身が表紙になったプログラムにサインする場面も。
イチローデビュー年のオールスター。
いずれにしろ、先の見えない状況はまだ続く。愛する野球が1日も早く戻ってくることを願いながら、ここからは昔話にお付き合いいただきたいと思う。
2001年7月10日。マリナーズの本拠地セーフィコ・フィールド(現T-Mobileパーク)で行われたオールスターゲームは米国に根付く野球文化を感じる試合となった。
この年は言わずと知れたイチローさんのデビュー年。球宴前までに.345の打率を残し、伝説のレーザービームも披露した彼はファン投票で両リーグ最多となる337万3035票を集め選出を果たした。まさにイチローのためのイチローのオールスターゲーム。事実、公開練習ではフリー打撃の大半をスタンドインさせ、ファンから起こったどよめきと大歓声は凄まじかった。
試合では、3年前までマリナーズの背番号51を付けたランディ・ジョンソン(当時ダイヤモンドバックス)との“51番対決”も制し、一塁内野安打も放った。だが、真の主役は違った。ボルチモア・オリオールズのカル・リプケンJr.だった。
監督がA-Rodに「三塁に回れ」。
1998年に2632試合連続出場の世界記録を樹立したリプケンは、この年限りでの引退を表明していた。この年は三塁手としてファン投票で選出され「8番・三塁」での出場。1回表の守備に就こうとしたそのとき、ドラマは始まったのだった。
ベンチからア・リーグの指揮を執るジョー・トーリ監督(ヤンキース)が遊撃で選ばれたアレックス・ロドリゲス(当時レンジャーズ)に「三塁に回れ」と指示している。察したA-Rodが三塁に歩み寄り「代わりましょう」と囁く。リプケンは苦笑し、動こうとしなかったが、ベンチから指揮官が執拗に「遊撃へまわれ」と指を動かしている。ようやく鉄人は納得し“定位置”へ入った。
元来、リプケンは遊撃手であり、’96年に衣笠祥雄さん(故人)が持っていた2215試合連続出場の世界記録も遊撃手として塗り替えた。翌年に三塁へコンバートされたが、遊撃手としての拘りは人一倍だ。その鉄人に表したチームメイトの敬意にファンは心を打たれ、満員の4万7364人のファンからは大スタンディング・オベーションが起こった。