サムライブルーの原材料BACK NUMBER
F・マリノス優勝と栗原勇蔵の引退。
思い出す2004年の連覇と松田直樹。
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byNaoya Sanuki
posted2020/01/05 11:50
2003年、2004年の連覇の中心選手だった“ミスター・マリノス”松田直樹。2011年8月4日、永眠した。
2003年、試合終了間際に奇跡が。
欧州流の手法をドライに感じたこともあった。
しかし一方で、昔のことも今のことも知るベテランの栗原を結果的に手放さなかったのもまた事実。新しいものに目を向ける一方で、受け継ぐマインドもチームにはあった。
優勝を決めたFC東京との一戦を眺めながら、あの2連覇が自然と思い起こされた。
2003年11月、セカンドステージ最終節。
首位ジュビロ磐田との一戦は先制され、GKまで退場した。優勝には勝つしかないという状況下で同点に追いつき、終了間際に奇跡が起こった。
松田直樹が大きく前に送ったボールは濡れたピッチに大きく弾み、エースの久保竜彦がジャンプ一番、ヘディングで合わせて逆転優勝を決めたのだった。
松田に気合いのビンタを注入。
そして翌年のチャンピオンシップ。浦和レッズとの対戦は、ホームでの第1戦に1-0で勝利してアウェーの埼玉スタジアムに乗り込んだ。
栗原はユースから昇格して入団3年目。徐々に出番をもらえるようになっていた。
大一番でベンチには入れなかったが、試合前に松田に頼まれ、気合いのビンタを注入して優勝を後押ししている。ビンタの威力が凄すぎて、松田が「意識が飛んでしまいそうだった」とあきれ顔で語っていたことを思い出す。
栗原はこのときの「強い横浜」の主戦力とはならなかったものの、その後は井原正巳の系譜を継ぐ背番号4を背負い、「堅守マリノス」を引っ張っていく立場となる。
松田や中澤佑二のプレーを見て学び、盗み、日本代表にも呼ばれるようになった。
栗原は言葉で引っ張っていくタイプじゃない。語ることも多いほうじゃない。
だが優勝体験を得て、常にチームのほうに顔を向ける姿勢は近年、出番が少なくなっても、曲げることはなかった。個性派ぞろいの先輩たちから見習ったことも、反面教師としたことも。