松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造、驚嘆! パラ水泳・成田真由美が
アトランタ大会を目指すまでの道のり。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2019/11/04 09:00
難病、交通事故、練習プールが無い、過酷な練習……多くの困難を事も無げに語る成田真由美さんに松岡修造さんも脱帽気味。
「修学旅行にも行ってないんです」
成田「練習が苦しくても目標があるじゃないですか。仙台へ行くという」
松岡「そうか。どんなに苦しくても、何か1つ目標があれば、真由美さんの中でそれは辛いものではなくなるんですね」
棟石「彼女は長く入院していて、修学旅行にも行ってないんです。だから仙台という地名に憧れのようなものを感じたんじゃないかと……。あのとき大会が東京開催だったら、誘いは断ったって言っているもんね」
成田「うん。断ってましたね。無理して嫌いな水泳をしたくないし、とにかく地方の知らない街に行けるのが魅力でした。
「世界中のスイマーと泳ぐ機会を持てた」
松岡「水泳を始めて、新しい仲間にも出会えた。でも、その後に追突事故にあって、手にも障がいが残ったんですよね。僕だったら『行かなきゃよかった』って100%思いますよ」
成田「でもあの事故にあって、またもっと泳ぎたいって気持ちが強くなったんですよ」
松岡「事故にあって手にも障がいが残ってしまったのに?」
成田「あの事故が1994年で、アトランタ大会の2年前だったんです。5カ月の入院を余儀なくされたんですけど、5カ月経っても私の体は泳ぐことを忘れていなかった。ちゃんと泳げるんだから、もっと練習してアトランタに行きたいと。その気持ちがどんどん強くなっていったんです。
当時、私が通っていた障がい者が使えるスポーツセンターまで車で片道1時間だったんですけど、それだと時間がもったいないように感じられて。それでもっと自宅から近くの練習場所を探してこの横浜サクラスイミングスクールとも出合えたんですね」
松岡「なぜそこまでしてアトランタを」
成田「'95年にプレパラリンピックに出たんです。その時初めて海外(アトランタ)の試合に出て、世界中のスイマーと泳ぐ機会を持てた。そこで優勝して自信が持てましたし、またこういう大きな舞台で泳ぎたいと思ったんです」