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監督として“ジロ”に挑む水谷壮宏。
夢破れても、自転車に魅せられた人生。
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph bySonoko Tanaka
posted2019/05/27 11:50
初山翔(右)らに指示を出すNIPPOヴィーニファンティーニ・ファイザネ監督・水谷壮宏監督(中)。
15歳で単身フランスへ。
「失敗や負けを恐れずに作戦を実行するように言っている。ここで(ペダルを)踏んだら、最後に体力がなくなるとか、少しでも躊躇してしまうと、絶対にこのレベルでは勝てない。苦しいときに踏んで、初めて勝つ可能性が出てくる。それがグランツール」
ヨーロッパの自転車文化は、骨の髄まで染み込んでいる。プロのサイクリストを目指し、単身フランスへ移住したのは15歳のとき。
幼い頃から自転車競技に打ち込んできたわけではない。小学校2年から中学3年までは香港で育った。当時は中国返還前で、まだイギリスの文化が色濃く残っていた。
野球少年を刺激したポスター。
そこで、水谷少年が熱中したのはベースボール。中学校時代にはリトルシニア(硬式)の香港代表に選ばれ、極東選手権で日本代表とも対戦した。4番打者として打席に入り、グローブをつけてはセンターを守った。「自由に楽しく野球をしていた」と懐かしそうに笑う。
同時に自転車競技へ傾倒していくのもこの頃。中学校時代の先生に勧められたトライアスロンで結果を残し、ジュニアチャンピオンの称号を得る。異種競技の“二刀流”。走るよりも、泳ぐよりも、ペダルをこぐときに力を発揮した。
何よりも自転車が好きだった。少年時代のヒーローは、プロ野球選手よりも、ツール・ド・フランスを走るライダー。よく足を運んだ自転車屋に貼られたポスターに心を奪われた。
「どの選手だったかは覚えていないが、僕もプロの自転車選手になりたいと思った」
父親の知り合いを頼り、中学卒業とともにフランスへ渡ることを決意する。最初の半年間は現地の語学学校に通い、その後クレルモン・フェランという都市の工業高校に進学。自転車競技は街クラブで本格的にスタートさせ、着実に実力をつけた。
どんどん強いチームにステップアップし、20代前半の頃にはアマのトップカテゴリーで走るようになり、プロの道も見えてきた。