フランス・フットボール通信BACK NUMBER
世界中を旅したさすらいのドイツ人GK。
その波乱万丈の蹴球人生を追う。
text by
フランク・シモンFrank Simon
photograph byBernard Papon/L'Equipe
posted2019/04/03 15:00
今もプファーネンシュティールは世界を旅している……それは、クラブチームのスカウトとして、そして環境問題を守るためである。
求めたのは名門でのプレーでなく……。
ドイツU-17代表の経歴を持ち、19歳でバイエルン・ミュンヘンにスカウトされたプファーネンシュティールは筋金入りの放浪者である。
彼が選んだのは名門バイエルンではなく、旅から旅へと世界中を渡り歩いて、短いときには数週間の契約でそれぞれの地に足跡を残すことだった。
実際に籍を置いてプレーした25のクラブのうち、ノッティンガム・フォレストやウィンブルドン、ハダーズフィールド、オーランド・パイレーツのように、あるものはそれなりに名前が知られており、ペナンFA(マレーシア)やデュネディン・テクニカル(ニュージーランド)のようにそこまで有名でないものもある。
イングランドで大けがをする直前にはシンガポールのゲイラン・インターナショナルに所属し、シンガポール・プレミアリーグ最高のゴールキーパーという評価を得ながら、八百長に関わったとして当局から追及されていたのだった。
101日間もの投獄を食らったことも。
東南アジアに根強くはびこる組織ぐるみの八百長は、プファーネンシュティールにも魔の手を伸ばした。わざと負けるようにという電話を彼が受けたのは事実だが、容認したことは一度としてなかった。そのあたりの詳しい経緯は、2010年に出版した自伝『止められないGK』の中で述べられている。
とはいえ2001年初頭には、クイーンズタウンの監獄に101日間投獄された。それはおよそ20年がたった今でも、悪夢にうなされる恐ろしい経験であった。弁護士と牧師以外に会えない独房の中で彼は、当時のパートナーに毎日手紙を書くことで、かろうじて生きる気力を保ち続けたのだった。
だが、ある日、奇跡が起こる。
証拠不十分で釈放されると、地元のバーガーショップで8つのハンバーガーを貪り食った後に、その日のうちに彼はドイツに帰国したのだった。
とはいえ晴れて自由の身になり、再びプレーできる保証をFIFAから得たのは、裁判に勝訴して無罪が確定した後であった。
躊躇なく旅を再開したプファーネンシュティールが選んだ行き先は、ニュージーランドでありカナダやノルウェーであった。
ところが東ヨーロッパでさらなる波乱に彼は巻き込まれる。