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ミキッチが「新たな家族」と惚れる
湘南・塚田通訳のセルビア流伝達力。 

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杉園昌之

杉園昌之Masayuki Sugizono

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photograph byMasayuki Sugizono

posted2018/02/27 08:00

ミキッチが「新たな家族」と惚れる湘南・塚田通訳のセルビア流伝達力。<Number Web> photograph by Masayuki Sugizono

湘南の練習場での塚田通訳とステバノヴィッチ。ミキッチ同様、早くも打ち解けた間柄になった。

大分、町田、東京……と数クラブで通訳を。

 2009年途中から大分トリニータでともに働き、'11年は町田ゼルビア、'12年から'13年まではFC東京、'14年はセレッソ大阪でユーモアあふれる熱血漢の言葉を的確に伝える役割を担った。大分時代にポポヴィッチ監督から特にいじられたという上本大海('17年限りで現役引退。現大分スカウト)は、塚田通訳の日本語訳は絶妙だったと証言する。

「ポポの比喩を使った冗談まじりの指示をうまく意訳して、チームの雰囲気をつくっていた。例えば『走って守備に戻れ』という指示でも、『大海、ここはゴルフ場じゃないぞ。カートが必要か?』って。要は歩くなってことなんですけどね(笑)。あれも、ユーモアのセンスがないと訳せなかったと思う」

 塚田通訳も当時のことをしみじみと振り返る。

「ポポさんにしても、大海は言いやすい存在だった。大海を通じて、チームにメッセージを送っていた」

「ポポさんからは多くのことを学んだ」

 ポポヴィッチがピッチ脇で声を張り上げていれば、その思いを言葉に乗せるのも仕事の1つだった。

「スポーツの通訳なので、時には感情を表に出すことも大事。ポポ(ポポヴィッチ)さんからは多くのことを学んだ。サッカーとともに生きている人だから。サッカーに携わる上での心構えを見せてもらい、教えてもらった。誰に対しても敬意を持って接することは、今も心に留めている」

 塚田氏は小学校の頃にサッカーを始め、鳥取・米子北高時代には柳沢敦、中村俊輔らが顔をそろえた'95年度の全国高校サッカー選手権に出場。

 高校卒業後は現ザスパクサツ群馬の元となるサッカー専門学校「東日本サッカーアカデミー」へ進み、プレーを続けた。そこでモンテネグロ出身のラトコ・ステオヴィッチ監督と出会ったことがきっかけで、バルカン諸国との縁が生まれた。同チームで2年間プレーし、監督に将来性を見込まれたのだろう。

「お前はセルビアへ行ってこい!」

 このひと言に背中を押された20歳の塚田青年は、すぐに渡欧した。

【次ページ】 セルビアでプロデビューし、後の大学へ。

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