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いつもマリノスと共にあった……。
中村俊輔、心の痛みと新たな旅立ち。
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJFA
posted2017/01/12 17:00
12月29日の天皇杯準決勝。マリノスの選手としては、ピッチ上での最後のシーンとなった。
小学生の頃から憧れていたマリノス。
中村俊輔は常にマリノスとともにあった。
運命的な出会いを果たしたのは小学生のとき。父親に連れられて三ツ沢公園球技場のコンクリート席に座り、JSL(日本サッカーリーグ)の黄金カード、日産自動車vs.読売クラブ戦を目にしたのが始まりだった。
以前、彼は懐かしそうに語っていた。
「読売はラモスさんたちがいてみんなテクニックがあった。自分のプレースタイルから考えると読売のほうなんだけど、でも日産のカラーが好きだったね。みんな紳士っぽく見えて、団結心があってね。自分勝手なプレーがなくて、全員で勝利を目指していく感じに惹かれていった。小学校の中学年ぐらいだったけど、あれが自分の原点なのかなとも思う」
ジュニアユースのセレクションでは倍率50倍の難関をくぐり抜けて合格。練習に明け暮れる日々のなか、Jリーグが開幕すると三ツ沢でボールボーイを務めた。背番号10を背負う木村和司のFKに心を奪われた。ハーフタイムに入ると木村に呼ばれて、ボール回しをしたこともある。魅せるとは何かを学んだ。
'97年にプロに入ってからは井原正巳、川口能活のストイックな姿勢に感銘を受けた。プロとは何かを学んだ。
松田直樹は練習から勝負にこだわり、誰よりも負けず嫌いだった。勝負とは何か、を学んだ。
世界のどこで戦おうが、心の中にはマリノスがあった。
レッジーナにいようが、セルティックにいようが、いつも古巣のことは気にかけていた。インタビューでグラスゴーを訪れた際も、リビングにはマリノスの試合を収録したDVDが置かれていた。
'10年にエスパニョールから7年半ぶりに復帰した際、彼は周りにこう話していたという。「自分の力が落ちてからじゃなく、自分がいいときに横浜に戻ってプレーしたい」と。
筆者がそのことをぶつけると「チームを強くしたい。純粋にそれだけ」と、トボケられてしまったが。