野次馬ライトスタンドBACK NUMBER
横浜ファンが作ったデスマッチ団体。
FREEDOMSの夢は“聖地”ハマスタ。
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byHidenobu Murase
posted2015/09/06 10:40
“聖地”ハマスタでギリギリのタオルを掲げるFREEDOMSの佐々木貴。戦いも生き様も、そしてベイスターズ愛もただ事ではない。
ドMのベイスターズファンはデスマッチ向き!?
「でも、プロレスラーになった'96年から'00年ぐらいまで、ちょうどベイスターズが一番強かった時代がぼくの人生の暗黒時代にかぶるんです。プロレスと生活費を稼ぐことに必死で、ハマスタで試合を観るなんて贅沢はできず、優勝が懸かった試合でもバイト先のテレビと新聞で情報を得るだけでした。まともに見られるようになるのは20代後半、プロレスラーとして独り立ちするためアパッチプロレス軍に移籍してから。ベイスターズは山下監督でした」
その頃から佐々木は、独自のハードコア路線で人気を誇っていた大日本プロレスのリングに上がり、デスマッチというジャンルに身を投じていた。
「デスマッチは断る理由もなかったので、軽い気持ちでやってしまったんですが、同じプロレスラーでもデスマッチは向き不向きがハッキリとあって、血を見たときに『ああ、もうダメ。無理無理』となる人間と、そこから『来た! 燃えてきたぜ~!』となる人間とに、真っ二つに分かれるんですよ。僕はたまたま後者だった。……やっぱり、言いたくないですが、ベイスターズファンは基本ドMなんですかね」
野球で精神的なデスを日常的に経験したからか、デスマッチに適性がありすぎた佐々木は、剣山、画鋲、蛍光灯などを身体中に突き刺しながら、デスマッチチャンピオンのタイトルを獲得するなど、レスラーとして飛躍していく。
選手が知らぬ間に、所属団体が解散。
しかし、栄華は長く続かない。崩壊はあっという間だった。
ベイスターズが100敗時代に突入する2008年の2月。アパッチプロレスの看板レスラーが事件を起こしてしまう。佐々木は真っ先に謝罪会見を開き、団体の無期限活動自粛を発表。どん底の状態の中、団体が存続できる道を模索した。
「当時の団体は、経営から何から本当にデタラメで……ハッキリ言ってボロボロでした。さらに事件が起きて僕らは活動を自粛するんですが、事件を起こしたレスラーが僕らの知らない他団体で勝手に復帰試合をしている。冗談じゃないですよ。それならと、僕らも活動を再開しましたよ。
だけど、会場の空気が重いんです。お客さんが入ってもモヤッとした空気をぬぐい去ることができない。何をやっても、お客さんがついてこない。そんな状態の中で、当時の社長もスタッフも逃げ出してしまい……選手だけが放り出されて、団体は崩壊しました。
2009年6月のある試合前に、お客さんがざわついていたんです。『アパッチプロレス解散という記事が出ていますがどういうことですか?』って。スタッフが僕らの知らないところで解散のリリースを流していたんです」