REVERSE ANGLEBACK NUMBER
『KANO』に見る、強いチームの作り方。
ヒューマニズムではなく、監督として。
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph byARS Film
posted2015/02/19 10:40
『KANO~1931海の向こうの甲子園~』は新宿バルト9ほかで全国公開中。配給:ショウゲート。
あらゆる民族の「よいところをひとつに」する発想。
映画の序盤、台湾にいる日本人実業家に資金の援助を申し込むと、その実業家は日本人以外も野球ができるのか、そういうメンバーで強くなれるのかという意味のことをいう。嘉義農林の野球部には日本人のほかに大陸から台湾にわたってきた漢族や、阿美族など台湾の先住民の子弟もいた。そういうチーム編成はほとんど日本人だけで作られているほかの強豪校や台湾在住の日本人から、あからさまな蔑視を受けていたことがそのエピソードから想像される。
それに対して近藤監督は反論する。
「蕃人(先住民)は脚が速い。漢人は打撃が強い。日本人は守備に長けている。三者のよいところをひとつにすれば、理想的なチームができる」
これがこの映画のテーマだ。
ヒューマニズムからではなく、野球の監督として。
異なる人種がひとつの目的のために力を合わせて、互いの長所を発揮する。これもよくある話ではある。しかし、注意したいのは、近藤監督の発言が、植民地を統治する側の施しのような意識、弱い立場の人間にも機会を与えようといったヒューマニズムからのものではないという点だ。
もちろん、そうした意識が全くなかったわけではない。理由もなく蔑視される人たちへの同情や共感も十分に持ってはいただろう。だが、近藤監督は社会運動家でも政治家でもない。野球の監督だった。弱いチームを強くしたい。ひとつでも勝ちたい。生徒にも勝つ味を覚えさせたい。自分も勝利の快感に酔いたい。ではどうする。そこで導き出されたのが異なる出自の選手たちによる混成チームだったのではなかったか。
甲子園の決勝戦の前夜、監督は負けることへの怖れから、かつての恩師にアドバイスを求める。恩師は「負けること怖れるな。ただ、どう勝つかだけを考えろ」と諭す。勝つための最善の手を求めてきたはずじゃないかというわけだ。この言葉で、近藤監督は迷いなく決勝戦に臨む。