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ホッジスと野球の殿堂。
~ミラクル・メッツを率いた男~ 

text by

芝山幹郎

芝山幹郎Mikio Shibayama

PROFILE

photograph byGetty Images

posted2014/12/13 10:40

ホッジスと野球の殿堂。~ミラクル・メッツを率いた男~<Number Web> photograph by Getty Images

ドジャース時代のギル・ホッジス。現役通算で打率は.273、1921安打、370本塁打だった。1969年には監督としてメッツを率いてワールドシリーズを制し、一躍「時の人」となった。

ホッジスにこだわる、個人的な記憶。

 もっとも、私がホッジスにこだわるのは記憶のせいかもしれない。

 1956年、ドジャースの一塁手だったホッジスは、日米野球で日本へやってきた。すらりとして渋い雰囲気の選手が好みだった私は、映像を見ただけで彼のファンになった。当時応援していた中日ドラゴンズの西沢道夫一塁手をパワフルにした感じ、という印象も抱いた。あとで調べてみると、ホッジスは後楽園球場で特大の場外ホームランを放っている。守備も巧かった。

 ホッジスは1924年、インディアナ州に生まれている。来日したのは32歳の年で、翌'57年に創設されたゴールドグラヴは初年度から3年連続で受賞している。以前からこの賞があったら、何回獲得していたことか。

 ホッジスは打撃も一流だった。データを見ると、11年連続20本塁打以上('49~'59年)とか7年連続100打点以上('49~'55年)という「太く長い」成績が残っている。近ごろの球界には、これほど高水準の成績を長期間持続できる一塁手はめったにいない。例外はアルバート・プーホルスぐらいだろう(フランク・トーマスはDHが多かったし、フレッド・マグリフにはやや波があった。マーク・マグワイアやラファエル・パルメイロには薬物問題が絡んでいた)。

私は、ホッジスの背番号14を覚えている。

 ホッジスの落選を惜しむ理由はもうひとつある。あまりにもよく知られた事実だが、彼は'69年、弱体球団メッツを率いてワールドシリーズ制覇をなしとげているのだ。そう、あのミラクル・メッツ。ホッジスは'67年に61勝101敗だったチームの監督を引き受け、1年目の'68年に73勝、2年目の69年に100勝と飛躍させた。そしてワールドシリーズでも、アール・ウィーヴァーの率いる強敵オリオールズを4勝1敗と降したのだった。

 1972年4月2日、ホッジスは47歳の若さで急死した。死因は心臓発作。あと2日で48歳の誕生日を迎えるところだった。

 いまにして思うと、彼が殿堂に最も近づいたのは、'93年のヴェテランズ・コミッティで候補に挙がったときではなかったろうか。このとき彼は、15人中11人(73.3%)の票を得た。通常なら満票は16票だが、この年はホッジスの旧友ロイ・キャンパネラが病を得て入院中だった。委員長のテッド・ウィリアムズは、委員会を欠席したキャンパネラの投票を認めなかった。「たられば」の話にはきりがないが、もしキャンパネラが元気だったら、ホッジスのレリーフはいまごろクーパースタウンに飾られていたにちがいない。私は、ホッジスの背番号14を覚えている。

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