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ハミルトン、バトン、ベッテル……。
セナの療法士と王者たちが語るセナ。
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byAFLO
posted2014/05/05 10:40
サンパウロ郊外にあるモルンビーの丘の墓地でセナは安らかに眠る。
4月中旬に開催された中国GPのパドックで、ドライバーに負けないくらい多くのインタビューを受けていたレース関係者がいる。
ヨゼフ・レベラー。現在、ザウバーのフィジオ(理学療法士)として2人のドライバーのフィジカルコンディションをケアするレベラーにこの時期注目が集まったのは、彼がかつてF1界のスーパースターだったアイルトン・セナのフィジオだったからである。
彼がF1でフィジオの仕事を始めたのは、ニキ・ラウダがレベラーの指導者であるヴィリー・ドゥングル教授をF1界に紹介したのがきっかけだった。ドゥングル教授はオーストリアでリハビリテーションのクリニックを開設していたため、世界を転戦するF1チームに帯同することができない。そこで、自分のクリニックでフィットネスと栄養学の専門家として仕事をしていたレベラーをマクラーレンに推薦したのである。こうしてレベラーは1988年にマクラーレンのフィジオとして、セナとともに仕事を開始する。
レベラーはセナ専属ではなく、チームのフィジオとしてマクラーレンに在籍していたが、2人はドライバーとフィジオ、ブラジル人とオーストリア人という枠を超えて、友情を育み合った。それはセナがマクラーレンからウイリアムズに移籍した'94年に、レベラーもウイリアムズに移っていることからもわかる。
5月1日、2人の関係は突然に終焉を迎えた。
ところが、2人の関係は'94年5月1日に突然、終焉を迎える。F1界を揺るがす大事故が発生し、関係者が混乱に陥っていた中、最後まで冷静にセナのフィジオとしての仕事を全うしたのが、レベラーだった。
「イモラには弟のレオナルドが来ていたけど、あまりのショックで、何もできずにいた。それから当時、アイルトンには個人広報のベアトリス(・アスンソン)もいたけど、彼女も同じブラジル人ということもあって、ただ泣くばかり。結局、アイルトンの身の回りのことは私が面倒を見ることになった。ホテルへ行って、アイルトンの荷物をまとめ、フランス・パリのシャルル・ド・ゴール空港から飛び立つ飛行機に、棺に収められたアイルトンとともに乗り、ブラジルで待っている家族の元へ責任を持って届けたよ」