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<ナンバーW杯傑作選/'02年6月掲載> 波瀾のプロローグ。 ~選手発表からW杯開幕まで密着!~
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byTakuya Sugiyama
posted2010/05/18 10:30
苦しいサバイバルを終え、あとは初戦のキックオフのホイッスルが鳴る瞬間を静かに待てばよい、そのはずだった。
だが、我らが日本代表に用意されていた“序章”にはそれまでと何ら変わりなく、薄い靄がかかっていた――。
5月17日、午後3時半。本来ならいるべき指揮官不在の中、やや緊張した面持ちで木之本興三強化推進本部副本部長が壇上に上がり、1枚の紙を手に、震える声で読み上げた。
「GK、川口能活、背番号1……秋田豊」
オオッと会場が最初に響(どよ)めいた。
「明神智和……小笠原満男……FW…中山雅史……」
ここで2つの感情がぶつかり合うような声が上がった。精神的な支柱として、またW杯経験者としてメンバー入りが期待されていた中山雅史の代表復帰の歓喜の声、そして二人の天才レフティ・名波浩と中村俊輔が落選した驚きと悲しみが混ざり合った声である。
直後に、中村に連絡するも携帯は繋がらなかった。同じく肺動脈血栓塞栓症で落選した高原直泰は、「(W杯の)初戦にやれる準備をしていただけに悔しい」と、落胆した声で言った。夜に連絡が取れた中村は、「マスコミに話もしたし、自分の中では決着をつけた。そりゃ悔しいけど、なんとなく(落選の)感じはしていたからね。これで終わった、あー終わったって感じ」と、意外なほど冷静な声で話した。
「チャンスはある、無いじゃなく、自分で作るもの」
彼にとってワールドカップは自分のプレーを披露し、欧州行きを確実にする重要な場だった。しかし、代表ではトゥルシエから陰湿ないじめと悪意に満ちた屈辱を受け、それに耐えねばならない試練の場でもあった。失ったものは大きいが、もう拳を握り締め、耐える必要はない。
ただ、中村の行く先々には落選の悲報を聞き、彼以上に落胆している人が多数いた。その度、中村は「みんなが落ち込んでどうすんだよ」と明るく笑っていたが、彼にとってはそういう人たちの落胆の表情が何よりも辛かったに違いない。
テレビ画面には代表入りした様々な選手の記者会見が流れていた。なかでも印象的だったのは秋田豊と中山雅史だった。
すぐに浮かんだのは、秋田の言葉だった。
「俺は、Jリーグで毎年優勝争いをやってきてドラマを中山さんと一緒に作り出してきた。そういう厳しい経験があるからいつ呼ばれても大丈夫。チャンス? 代表に入るチャンスがあるとか、ないとかじゃなくてチャンスは自分で作っていくもの。自分は最後の発表の瞬間まで絶対に諦めない」
そう言って、審判の日を待っていた。
「(名を呼ばれた時)ドッキリかと思った」
いつ呼ばれてもいいように調整を続けた男に、サッカーの神は最後に微笑んだ。