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イングランドサッカーはゴミなのか? 

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田邊雅之

田邊雅之Masayuki Tanabe

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photograph byMatthew Peters/Manchester United via Getty Images/AFLO

posted2007/05/18 00:00

イングランドサッカーはゴミなのか?<Number Web> photograph by Matthew Peters/Manchester United via Getty Images/AFLO

 スペインのマルカ紙に掲載された一本のコラムが、イングランドサッカー関係者の間で波紋を呼んでいる。寄稿したのは元アルゼンチン代表のホルヘ・バルダーノ。ギャラクティコ時代のレアル・マドリーでGMも務めていた彼は、CL準決勝、チェルシー対リバプール戦をこう酷評したのである。

 「狂ったように盛り上がっているスタジアムの真ん中で、クソのようなサッカーをする。そして、それを芸術だなどと呼ぶ人々がいる。チェルシーとリバプールは、(現在の)サッカーが向かっている方向を最もはっきりと、誇張された形で示している。非常にテンションが高く、組織的で、戦術的で、フィジカルで、ダイレクトなサッカーだ。

 だがショートパスは?フェイントは?緩急は?ワンツーは?股抜きは?ヒールキックは?そんなものはまったくない。両チームが準決勝でやったような、極限までコントロールされた厳粛なサッカーは、創造性やテクニックをすべて中和してしまう。

 ドログバが第1戦のベストプレイヤーだったとすれば、それは単に彼が一番速く走り、一番高く飛び、一番強烈に相手の選手に激突していたからだ。サッカーがチェルシーやリバプールが志向しているような方向に進んでいくのなら、クレバーなプレーや才能といったものに別れを告げる準備をした方がいい。ベニテスとモウリーニョがこんなサッカーをしているのは、どちらも選手として大成せず、選手の才能を信じていないからだ」

 批判もここまで露骨だと逆に笑ってしまうが、バルダーノの指摘が一面の真実をついているのは事実だ。リバプールの勝利に終わったCL準決勝。ファーストレグはたしかに退屈だった。組み合わせのせいでCL特有のスペシャル感もなかったし、さしたる見所もなかった。これに比べればセカンドレグはずいぶん盛り上がったが、サッカーの内容に関して言えば実はファーストレグとあまり差はない。守備を固め、中盤を支配し、カウンターでチャンスを狙う。対戦相手のアドバンテージを極小化して、自分たちの強みを最大限に活かす。徹底した合理主義、非情なまでのリアリズムは第2戦でも貫かれていた。

 かといって、バルダーノに「はいそうですか」と与するわけにはいかない。イングランドサッカー云々というなら、マンUのサッカーはどう説明するのか。ミランとのセカンドレグは凡戦だったが、シーズンを通じて攻撃的で面白い試合が多かった。バルダーノも今季のマンUは高く評価してきたといわれている。しかしプレスをかけて失点を防ぎ、ユニット全体でチャンスを作るという発想は、チェルシーやリバプールに通底しているはずだ。プレミア4位のアーセナルはどうか。最近では美しいサッカーをするチームだという印象が強いが、'03〜'04シーズンにプレミアの無敗記録を樹立した頃は「あれほどの運動量が要求されるサッカーを90分間、さらには1シーズンどうやって維持したのか」というテーマが論じられていた。マンUやアーセナルにしても、その攻撃的なサッカーを支えているのはスピードであり、スペクタクルな展開を可能にするフィットネスだ。

 ヨーロッパ大陸に眼を転じても同じような傾向は見て取れる。4−6−0の“トップレス”で旋風をおこしたローマ。ローマと戦って散ったリヨン。どちらもフィットネスの高さと組織力は目を見張るものがあった。ミランなどはいうまでもない。

 フィジカルの向上と戦術の高度化は、もはやヨーロッパ全体のトレンドである。つまりイングランドサッカーがゴミならば、ヨーロッパサッカー全体がゴミだということになってしまう。そもそも組織的なばかりでつまらないというのなら、なぜレアルはカペッロを起用したのですかと訊ねてみたい。

 「どうやって守備網を突破するか」「いかにしてチャンスを作るか」。この課題をクリアーするのはますます難しくなってきている。華麗なテクニック、観客をうならせるパスセンスを披露するには、物理的にも時間的にも“スペース”が必要になるが、ピッチ上にはほとんど残されていない。スペースという名の「冗長性"redundancy"」とフィジカルの向上は、トレードオフの関係にある。

 そこでまず監督たちが採用するのが、守備を固めてボールを奪い、相手の陣形が整わないうちに反撃するカウンターと、敵にプレッシャーをかけてミスを誘うプレッシングだ。これらの方法でも通用しない場合にはセットプレーの出番になる。件のチェルシーとリバプールのセカンドレグはその典型だった。ランパードとジェラードが互いの存在を消し合い、マスチェラーノとマケレレが執拗にアタッカーをマークする。ドログバは屈強なリバプールのDF陣に周囲を囲まれ、クラウチやカイトはテリーとエシアンに体を寄せられる。体調のいい関脇リバプールと、チェルシーという体調不良の大関(どちらも横綱ではない)が四つに組むのだから攻撃の余り駒はない。いきおい試合は塹壕戦のような展開になり、打開の糸口はアッガーのような「エキストラ(後方からの攻撃参加)」に託される。それでも状況が変わらない場合、最後の最後に試合を動かすのは、カカに象徴されるような「個」となる。

 ただしカカが活躍したのは、アンチェロッティがモウリーニョやベニテスと違うアプローチをとったからではない。それどころか彼の戦術は、詰将棋のように合理的だった。4−3−1−2で守備を固め、得点のチャンスが最も生まれそうな攻撃陣を組む。ナンバーウェブで書いた通り、カカをトップに起用する戦術は十分に予想できた(参照:そしてセンターフォワードはいなくなった)。

 カカがチェルシーやリバプールにいたとしたら、バルダーノの怒りも多少は収まったのかもしれない。あるいはバルダーノはメッシのような選手のことを念頭においていたのかもしれない。メッシが5人抜きをやった後、彼は喜色満面でコメントしている。

 「メッシは“クラック”の条件を兼ね備えている。現代のマラドーナだ」

 しかし5人抜きを演じた相手はヘタフェである。レアルやバレンシア、セビージャならこんな芸当は許さなかっただろう。それはメッシ自身の発言からも明らかだ。

 「“スペース”があるのが見えたし、“ギャップ”があったから仕掛けることにした。ゴールを狙っていたし、フィニッシュまで持っていきたかったんだ。サミュ(エトー)がいたのはわかったけど、二人のディフェンダーがついていたから自分で行くことにしたのさ」

 バルダーノは'86年のW杯をマラドーナと共に制した人物であり、'94〜'95シーズンにはレアルを率いてリーガで優勝も果たしている。哲学者の異名をとるくらいの知性派なのだから、見る目も肥えているのだろう。だがバルダーノが選手や監督をやっていた頃と今では、まるで状況が違う。さらにいうなら、ジダンがレバークーゼン相手にボレーシュートを決めた5年前とは比べ物にならないほど、ピッチは狭くなってきている。

 個か組織か、戦術か閃きかという二元論から、どちらか一方の立場を断罪するのは不毛だ。フィジカルや戦術のレベルアップを目の敵にして個の復権を説くのはアナクロニズム、サッカー界が構築してきたものに鉄槌を加えようとするラッダイト運動に等しい。組織サッカーが徹底するからこそ、それを乗り越える才能が登場する。傑出した才能を封じ込めるために、今度は戦術が発展する。個か組織か、創造性か効率か、攻撃か守備かという対立軸は古くて新しい命題であり、サッカーを進歩させる最も強力な弁証法(ダイナモ)なのである。フィジカルがクローズアップされている今シーズン、一方でカカやロナウドといった攻撃的選手が覚醒してきたのはその証拠ではないのか。

 バルダーノがいうように、チェルシーとリバプールの試合はとてもつまらなかった。だが同じ程度にエキサイティングでもあった。肉弾戦が壮観だったからでも、アンフィールドの雰囲気が凄まじかったからでもない。このような試合が、次代の傑出した「個」を育む素地になるだろうという予感があったからだ。今のサッカー界が目撃しているのは、創造性や才能の忌むべき「黄昏」ではない。リバプールやチェルシーの包囲網をくぐり抜ける新たな才能が生まれる瞬間なのであり、まだ見ぬクリエイティビティが萌芽しようとする、何度目かの「夜明け前」なのだ。

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