NBAの扉を開けBACK NUMBER

扉を開いた、ダンサーの挑戦 

text by

小尾慶一

小尾慶一Keiichi Obi

PROFILE

posted2004/10/28 00:00

 NBAの扉を開くのは選手だけではない。世界規模のエンターテインメントであるNBAには、国籍や性別に関係なく、さまざまな形の入り口が用意されている。

 ダンサーの富田早苗はそんな扉のひとつを見事に開いてみせた。2002年、彼女はゴールデンステイト・ウォーリアーズのダンスチーム・オーディションに合格し、NBA史上2人目の日本人ダンサーとなったのだ。

 京都に生まれ、日本舞踊の経験もある彼女だが、子供の頃にNBAの試合を観戦したことがきっかけでダンサーを夢見るようになった。「小さい頃は誰にでも夢がありますよね。野球選手になりたいとか、スチュワーデスになりたいとか。私の場合は、NBAのダンサーになる夢をずっと持っていたんですよ」

 夢が目指すべき目標へと変わったのは、高校、大学とアメリカに留学していたときのことだ。「(高校時代の)チアリーダーのメンバーで、わたしがすごく憧れていた人が、ロサンゼルス・クリッパーズのダンスチームに入ったんです」と富田は語る。「友達に紹介してもらって、ふたりで食事に行きました。すごく魅力的な人で、『わたしもこういう人になりたい』と思ったのがすごく大きかった」

 大学卒業後、外資系企業で働く傍ら、富田はダンススクールで厳しいトレーニングを重ねた。忙しい仕事の合間を縫って渡米し、オーディションを受けるものの、最終選考の壁をなかなか突破できなかった。

 やはり仕事との両立は難しいのか? 彼女が選んだのは背水の陣ともいうべき道だった。

 「タイミング的にもこれが最後かもしれないと思って、会社を辞めて1年間の貧乏生活をしたんです。東京のブロードウェイダンスセンターで、週7日、朝から晩まで、限界まで練習しました」

 その気迫と努力が実を結び、富田は挑戦3年目にしてついにダンスチーム入りを果たす。ところが、アメリカで彼女を待っていたのは厳しい現実だった。就労ビザの問題をクリアすることができず、踊ることができなくなってしまったのだ。練習には参加させてもらえるものの、試合中は「ウォーリアー・ガールズ」の仲間たちが踊るのを眺める日々。理想と現実のギャップに苦しむ中、追い打ちをかけるようにショッキングなニュースが飛び込んできた。富田をチームから外すという決断が下されたのだ。

 開きかけた扉が、目の前で閉じていく。オーディションに受かるまでの努力、そしてダンスチームでの厳しい練習が頭の中を駆け巡る。諦めたくない。諦めるわけにはいかない。

 「話ができる人全員と話そうと思って、朝早く、アポイントもなしにオフィスに行きました」と彼女は当時を振り返って言う。「自分の気持ちをわかってもらいたかったんです。わたしがどれだけNBAのダンサーになりたかったのか。それを伝えたかった」

 その想いが皆を動かした。ダンスチームのディレクターは、彼女の言葉に心を打たれ、涙まで流してくれた。異例なことだが、ビザの問題が解決するまでダンスチームのスポットは彼女のために空けておかれることになったのである。

  シーズン後半に初めてコートに立った日のことを、富田は鮮明に覚えている。

 「ミネソタ・ティンバーウルブズとの試合でした。私にとっては初の舞台。アナウンサーが『ウォーリアー・ガールズ!』と言って、わたしたちはコートに出て行くんですが、あの瞬間、初めて踊ったあの時のことを考えると今でも鳥肌が立つくらいです。忘れられませんね。最高の舞台に立って、思い切り踊って、観客1人ひとりの顔や表情を肌で感じて……。これがNBAなんだって、そう思いました」

 その後、03年、04年と、彼女はウォーリアーズのオーディションに3年連続で合格。今季もコート上で華やかな踊りを見せてくれる。選手のようにダンクやスリーポイントシュートを決めるわけではないが、彼女はダンサーとしてNBAの輝きの一部になっている。

 彼女は言う。「スポーツを紹介する手段はどんな形でもいいと思うんです。たとえば女の子だったらアパレルから入ってもいい。音楽が好きだったら音楽でもいい。競技からだけじゃなくて、そういうことに興味を持つことから、バスケットって何なんだろうっていうところにたどり着いてもいいと思う」

 11月2日(現地時間)、いよいよNBAが開幕する。ダンスという扉を開いた富田のように、自分に合った入り口を見出し、NBAを楽しんでほしい。

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