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藤井寺物語。
text by
渡辺勘郎Kanrou Watanabe
posted2004/09/22 00:38
「『お~い、栗はん!こっち来て一緒に食べんかい!』
レフトを守ってて、こういわれて振り返ると、スタンドで観客が焼き肉をしてたんです。ガードマンが慌てて飛んで行ってましたね」
こんな思い出話をして「とにかく藤井寺球場のファンは強烈でした」と語るのは、往年の4番打者、栗橋茂さん。引退後の今は、藤井寺駅の近くでスナックを営む。
「『○○!おまえ、昨日、電気屋で月賦でテレビ買うてたやろ!プロ野球選手が月賦なんかで買うなぁ~。現金で買うたれ!』というヤジが飛んだことがあって、名指しされた選手に『ほんとに月賦で買ったの?』と聞いたら『はい……』って恥ずかしそうに頷いてました」
これは近鉄憎しの強烈な南海ファンのヤジだったといわれているが、真偽のほどは定かではない。ただ、「それほど選手とファンの距離が近かった」と街の人はいう。
かつてのリリーフエースで今は二軍で調整中の赤堀元之投手も、藤井寺に来た当初、そんなヤジに面食らった一人だ。
「選手に『何でおまえが出てくるんや』と、近鉄ファンは身内をヤジるんです。魚屋のおっさんみたいなダミ声の人がいて、よく聞こえるんですよ。だけど慣れてくるとそれがパワーになることもありました」
強烈なヤジに鍛えられるのか、藤井寺という土地柄が育むのか。近鉄の選手たちは、管理野球とは対極にいる個性派揃いで、しかも気のいい男たちばかりだった。
昭和39年に入団して現役として8年、その後バッティング投手、スコアラー、二軍マネージャー、広報を務めて近鉄一筋で退団した小野坂清さんは、朝の早い二軍マネ時代から藤井寺に住んで24年。消え行く古巣の雰囲気を、こう話す。
「大らかなほうでしょ。そういう雰囲気を先輩から受け継いで、これくらいの感じでやっておきゃいいんだ……という。ガチガチだな、厳しいな、という感じはなかったですね」
藤井寺球場にナイター設備が整ったのは昭和59年。当然、小野坂さんの若手時代、夜の球場は暗かった。そこで寮の先輩から「今日は来てるか調べて来い」と言われた。
「照明がなくて暗いから球場周辺にはよくアベックが集まってきたんです。アベックを見つけるとダダダッと皆で見に行くんです」
この密かな楽しみのため、夜は「練習するな」と、小野坂さんは先輩から言われたことがあるという。時は下って'80年代。やはりOBで、今は大阪・ミナミでバーを営む加藤哲郎さんの話。
「当時、寮の門限は10時。ある日、1時か2時に寮に帰ると当然のことながら鍵が閉まっていた。明かりがついていた部屋が一つしかなかったので、仕方なく誰の部屋か分からないけど壁をよじ登って窓を叩いたら、阿波野の部屋でね。驚いてましたよ。彼はその日に入寮したばかりで緊張して眠れなかったらしくテレビを見ていました。えらいとこに入ったなって思ったでしょうね」
巨人との日本シリーズのとき、広報だった小野坂さんは巨人側から、マスコミの数が多くて普段の近鉄の比ではないから規制のためのロープを張るよう言われた。しかし、しなかった。
「『アホなこと、止めろや』って仰木さんも言ってましたよ。ま、カッコだけつけとこかと、ラインを引いときましたけど。結局、何も問題は起きなかったですよ」
他球団から近鉄に移籍してきた選手も、近鉄から移籍していった選手も、近鉄は居心地がいい球団だと口をそろえる。うるさいことを言わず、融通が利くチームなのだ。
「たとえばコーチが『50mダッシュ10本』と言うでしょ。僕ら2、3本したら、もう、エエって止めるんです。『もうできました』って。試合中にコーチからブルペンで投げろと言われても『まだいいです』と断ったり。選手が自分でやってるというか、押し付けられてやってる感じじゃなかった。門限云々にしてもそうですが、仕事したらエエんちゃうのっていう雰囲気がありました。遠征先の宿舎に朝帰りしたときに、仰木さんとバッタリ鉢合わせになったことがあるんですが、会話は『大丈夫か?』『お休みなさい』だけ。
札幌遠征中には、こんなこともありました。僕と吉井と池上が二軍落ちの当落線上にいて、ビール園で仰木さんに『3人、立て。おまえらのうちの一人、明日から二軍に行ってもらわなアカンのや』といわれ、その一人を一気飲みで決めさせられたことがあるんです。次の日、酒の弱い吉井が朝イチで藤井寺に帰りました」(加藤さん)
「遠征中、試合に負け、飲んで宿舎のホテルに帰ってきた仰木さんは『負けても明日、ゲームがあるんだ。まだ起きてるヤツ、部屋でくすぶってるヤツがいたら、もう一回飲んで来い!』っていうんです。選手はみんな、もう飲みすぎていて、こっそり帰って来てるのに」(小野坂さん)
いまでも近鉄の試合が大阪ドームであるときは必ず姿をみせるウグイス嬢歴35年の大野博子さん。第一声は藤井寺だった。
「最初は二軍の試合でも緊張して声が出ませんでした。当時は今みたいにオシャレでイケメンなんていないですよ。女なんか場違いな雰囲気。いかつくて、ごっつい人たちは、私が名前を呼び間違えるとバッターボックスに行く間に放送席の中の私をじろっと睨むんです。恐かったですね。絶対選手名だけは間違えないようにといつもビクビクしてました」
球場が汚いと言って帰ってしまった外国人選手がいた。試合中、グラウンドでヘビやイタチが出たり、犬が走り回って中断したこともある。大野さんはしょっちゅう「モノを投げないで下さい!」とアナウンスしていた。
「藤井寺が満杯になり始めたのは野茂が入ってから。その野茂がメジャーに行ってしまい、寂しかった。あれからスター選手がボンボン出て行ってしまいました。
巨人や阪神は生え抜きを大事にして、馴染みにくいようですね。ウチはそれがないって巨人から来た選手が言いますよ。放ったらかしというんですか、そういうのが結構いい雰囲気を出してたんでしょうね。監督の仰木さんが、前日の酒を抜くんやっていって、藤井寺のグラウンドを上半身裸で走っていたのを思い出します。
吉岡もすぐに馴染んでくれたし、今年巨人に帰った三澤も、2年半ぐらいしかいなかったのに『寂しい』っていってくれましたから。阪神から来た川尻もすぐに溶け込めてたし」(大野さん)
藤井寺球場では食堂のアルバイトの女の子が出前をしていた。試合中に仰木監督が注文したコーヒーをベンチの中まで出前することもあった。「ほかの球場ではこんなに近くに女の子がいない。藤井寺は楽しい」と他球団の選手から言われていた。試合前、西武やロッテの選手からコーラの注文を受けて持っていくと、本人はマッサージを受けていて、そのコーラを自分で飲まずに出前に行った女の子に飲ませて、ずっとお喋りしていた選手もいたという。
「吉井さんや山崎慎太郎さんがおちゃらケの中心人物で、出前を片付けに来いと言われて取りに行くと、ブライアントがシャワーを浴びて裸で出てきたところだったり、ロッカーにエッチな写真が貼ってあったりして、私たちが驚くのを隠れて見て笑って、子供みたいないたずらをしてました。だけど、そんなアホなことしてるのに、いざ野球となるとカッコいいんです。
当時、巨人やヤクルトが人気がありましたが、サインや写真を頼んでも無視する人が多かったんです。なのにタニマチや先輩が一緒だと態度が急に変わる。そんな様子を目の当たりにしたとき、私は近鉄ファンで良かったと思いました」(元アルバイト、A子さん)
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