#1132
巻頭特集

記事を
ブックマークする

「本気で臨める条件は揃っていた」浦和レッズを初優勝に導いたブッフバルトの選手の能力を“見極める目”と“柔軟な起用法”「闘莉王には自由を」《現地インタビュー》

2025/11/21
'06年、最終節でJリーグ初優勝を決めた山田暢久(手前右)ら。この日の入場者数6万2241人は当時のJ1最多記録だった
2004年、クラブを熟知する男が浦和に帰ってきた。悲願の初優勝へ――そのための組織作りは、選手とチームを“見極める”ことから始まった。あれから約20年。本人が母国で当時の記憶を語る。(原題:[現地インタビュー]ギド・ブッフバルト「優勝の条件は揃っていた」)

「時は満ちた」

 浦和レッドダイヤモンズから監督招聘の話がきたとき、ギド・ブッフバルトの胸にはそんな思いが過ったという。

 Jリーグ黎明期の1994年から'97年に選手としてレッズでプレー。その後、ドイツへ戻ってから6年あまりが経っていた。しかし縁は切れず、選手時代から親しかった犬飼基昭がレッズの社長に就任した2002年からの2年間は、テクニカルアドバイザーとしてクラブに助言を与えるようになった。何度も日本へ飛んでは試合を見て、どうすればチームを改善できるかなど強化について話し合う。欧州レベルのインフラを整備できるよう、シュツットガルトへの視察を手配したこともある。

 レッズは'03年に大原サッカー場のクラブハウスが完成。埼玉スタジアムもJリーグでトップクラスの観客数を動員していた。監督就任を打診されたのは、そんな時だった。ブッフバルトは当時をこう懐古する。

「2年間観察してきたメンバーを見て、『優勝できるかもしれない』と考えた」

 観察――それこそが彼の強みだった。'04年に監督に就任すると、その長所をもとにチーム作りを始めた。

「1シーズン目を使って、Jリーグでどんな戦い方をしたらいいか、選手たちがどんな特徴を持っているかなどを見極めた」

 優勝するに相応しいチームを作るため、レッズと他のチームを改めて分析するところから取り掛かり、その結果落ち着いたのは3-5-2のシステムだった。

「平川忠亮をはじめ、非常に走力のある選手がいたし、中盤に5人いれば数的優位の状況を作れて、前線までの距離を短くすることもできる。後ろにはスピードがあって1対1に強い選手もいたから、相手にそこまでスペースを与えずに済んだ」

特製トートバッグ付き!

「雑誌+年額プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています

photograph by J.LEAGUE

0

0

0

この連載の記事を読む

もっと見る
関連
記事