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「これで負けたら、全部俺のせいやな」本田圭佑が導いたブータン初の国際大会出場…パロFCに“1試合限定の助っ人”がもたらした大混乱と奇跡【ノンフィクション】

2024/09/02
ブータン・パロFCで4番を背負ってプレーした本田圭佑
本田圭佑擁するパロFCか、ネパールの雄チャーチボーイズか。AFCチャレンジリーグ、プレーオフ。間違いなく最高峰ではない。しかしながら互いの思惑と誇りが交錯した泥まみれの死闘は、本場プレミアリーグにも匹敵する熱を、確かに帯びていた。(原題:[ナンバーノンフィクション]本田圭佑「今夜、アジアの片隅で」)

 すべての始まりはパロ空港の駐車場に設けられたささやかなスクリーンだった。

 ヒマラヤ山脈の東端に位置するブータンでは、伝統文化を守るために長らくテレビ視聴が禁止されていた。国民はテレビ放送の解禁を1999年まで待たなければならなかった。

 ただし、例外もあった。そのひとつがブータンに駐留するインド軍である。ブータン軍を訓練するためにインド軍から軍事訓練チームが派遣されており、彼らはパラボラアンテナを設置することができた。

 インド軍は国民との交流のために、ときおりパロ空港でテレビ上映会を開催した。'90年イタリアW杯の際には、西ドイツ対アルゼンチンの決勝を上映した。

 10歳だったカルマ・ジグメは、初めて見たサッカーに一瞬で魅了される。

 特に目を奪われたのはアルゼンチンのディエゴ・マラドーナだ。左足でボールに魔法をかけ、相手を翻弄する。試合こそ敗れたものの、マラドーナの輝きは勝敗を超越していた。少年はいつかブータンの地にサッカーの花を咲かせたいと思った。

 少年が創立したクラブがブータンに奇跡をもたらすのは34年後のことである――。

「負の歴史」を変えるべくなりふり構わぬ強化。

 アジアの多くの国にとって、レベルを問わず国際大会は憧れの存在だ。W杯のアジア枠は8.5に拡大されたとはいえ、中堅国以下にとってまだまだ高嶺の花である。アジアカップの出場も24に限られている。アジアサッカー連盟(AFC)に登録する47団体の約半分は、他の大会に夢を見る場を求めなければならない。

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photograph by Kiichi Matsumoto

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