箱根駅伝戦歴
初出場 1949年
出場回数 72回
優勝回数 10回
前回順位 17位(予選会6位)
もうすぐ8年が経つ。日立物流陸上部のジャージに身を包む別府健至監督は、日体大を30年ぶりに総合優勝に導いた記憶を思い起こすと、思わず苦笑した。
「やっぱり、すぐに前年(2012年)のあの19位が頭に浮かびます。あそこから'13年1月のスタートラインに立つまでの1年間が、本当にいろいろあったので。一日中、話しても終わらないくらいですよ」
2012年1月3日。運営管理車の助手席では、これまでにない悔しさを味わった。復路の出だしから大失速して最後尾へ。沿道からは、容赦のない罵声が飛んでくる。“別府、やめろ”、“日体大、何やってんの”。後ろを走る広報車からは、虚しく響くアナウンスを何度も何度も聞かされた。
〈ご声援、ありがとうございました〉
他大学の監督から「あれは精神的に応える」と聞いたことはあったものの、まさか自分が直接耳にするとは思わなかった。気づけば、先頭とのタイム差は広がるばかり。復路平塚中継所に襷が渡る前だった。8区を走る今崎文仁の付き添い役を務めていた3年生の高柳祐也に1本の電話を入れ、心苦しい伝言を頼んだ。
〈たぶん、白襷になる。(走る本人に)伝えてくれ〉
1949年の初出場から一度も途切れたことがなかった伝統の襷である。64年目にして初の屈辱。日体大の運営管理車は繰り上げスタートに備え、区間終盤から後ろについていた選手を追い越し、戸塚中継所に先回りしていた。襷がつながらなかった瞬間は目にすることなく、9区の中継所から響くピストルの乾いた音だけ聞いた。静かな車内で時間だけが過ぎていくなか、苦行のような復路が終わりに近づいた頃だ。箱根路で最底辺まで沈んだことにより、夏から続いていた迷いがどこかで吹っ切れた。車の後部座席で、選手のラップタイムを読み上げていた当時3年生のマネージャー、中村大樹にこう告げた。
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