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川合俊一、加藤陽一、福澤達哉…今こそ知っておきたい「冬の時代」を支えたエースたち<前代表監督と日本初プロ契約選手も>

2023/09/24
左から中垣内祐一、川合俊一
金メダルに輝いたミュンヘン五輪を頂点に、世界の表彰台から遠ざかっていた日本。その間、多くの才能が歴史をつないできた。今日の日本代表の礎は彼らによって築かれたのだ。

国内の注目度をつないできたスター選手たちの奮闘。

 世界のバレーボールで強豪国が群雄割拠となった1980年代以降、日本男子が世界の表彰台を争う機会は減ってしまった。だがそういった時代にも、ファンからの注目度をつないできたスター選手たちがいた。

 '84年のロサンゼルス五輪で日本は7位、'88年のソウル五輪では10位だったが、'80年代の最大のスターと言えば川合俊一だった。ミドルブロッカーの役割ながら、ライトからバックアタックを打つこともあって、日本の得点源だった。前髪を長く伸ばした髪型が当時としては注目されたが、そういった話題だけでなく、五輪出場という日本の男子バレーの歴史をつなぐプレーを見せてきたことは事実だ。

 ロサンゼルス五輪の出場権がかかった'83年のアジア選手権では、1枚の切符をかけた中国戦で、日本は第1、第2セットを取られて崖っぷちに立たされた。このとき当時20歳だった川合が途中から出場、1人時間差攻撃を含む、さまざまな攻撃パターンを見せて、逆転勝利による五輪切符の獲得に貢献した。

オポジットとして活躍した中垣内、代表を支えた荻野

 '90年代になると日本は'92年のバルセロナ五輪で6位になり、銅メダルを獲得した米国には予選リーグで勝利した。当時のチームで、セッターの対角に位置するオポジットとして目覚ましい活躍を見せたのが中垣内祐一だった。ライトからのバックアタック、レフトからのオープン攻撃、そしてライトから中央に走り込んでの時間差攻撃など、あらゆる位置からの攻撃を見せ、チームにおけるスパイクの打数はずば抜けていた選手だ。

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photograph by AFLO

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