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“電撃復帰”山中亮平が語っていた「勝算」とは?「呼ばれては帰され、また呼ばれる」信頼される苦労人【日本代表インタビュー】

2023/09/19
ラグビーW杯フランス大会の開幕まであと4カ月を切った今、日本代表選手たちが胸に秘める思いとは――。連載第4回は、円熟のフルバックが本大会に懸ける自信と覚悟について語った。

 4年前のW杯の熱狂。台風が関東地方を縦断した翌日、グループステージでスコットランドを倒したあの夜。最後にボールをスタンドに向かって蹴り出したのが、山中亮平だった。

 東海大仰星高時代に花園を制したSOは、身長188cmと日本人の司令塔としては超大型で、それでいてランニングスキルがピカイチだった。山中こそ「大器」と呼ぶにふさわしかった。早稲田でも頂点を経験し、大学4年の時にアラビアンガルフ戦で初キャップ獲得、そして意気揚々と神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)へ。山中の前途は洋々に見えたのだが……。2019年W杯までの道のりは山あり谷ありだった。

 入社年の'11年、禁止薬物検出により2年間の選手資格停止処分を経験。日本が世界を驚かせた'15年のW杯ではバックアップメンバー止まりで、歴史的快挙を日本で見ていた。

 '16年にヘッドコーチがジェイミー・ジョセフに交代してからも、山中は代表に招集されてはいたが、レギュラーポジションの獲得までに至らない。山中はずっと“ボーダーライン”の男だった。

「うれしかったです、辛抱してきた仲間が結果出すのは」(堀江)

 彼の運命が変わったのは前回W杯の直前、メンバー選考のための最後の試合、'19年8月10日のアメリカ戦だった。

「あの年はサンウルブズに参加していて、ブラウニー(日本代表アタックコーチのトニー・ブラウン。サンウルブズのヘッドコーチを兼任)からの信頼度も徐々に上がっていたと思います。それでも、ジャパンでは実戦でプレーするチャンスがなかなかなくて。最後の最後、あの試合でどれだけの結果を残すかによってメンバーに入れるか、入れないかが決まる感じでした。あれほどのプレッシャーを感じたのは、それまでありませんでした」

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photograph by Kiichi Matsumoto

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