充実した投手陣を擁し、カープは3度目の頂点に立った。
栄光の'80年代、マウンドで躍動した往時の投手たちが、
最後の日本一への激闘の軌跡と、その後の苦闘を語る。
栄光の'80年代、マウンドで躍動した往時の投手たちが、
最後の日本一への激闘の軌跡と、その後の苦闘を語る。
ファンには長い時間だったろう。広島カープは3位以上を確定させ、クライマックスシリーズに進出することになった。1997年に3位になってから久しくなかったAクラス入りである。6年前からはじまったCSにもようやく出場することができる。応援してきた人たちの喜びが想像できる。
しかし、そんなことで喜んでもらっては困る。そう口をへの字にする人もいるだろう。1980年代から'90年代初頭にかけて、カープは投手王国といわれた。それを担った人たちだ。'79、'80年に日本シリーズを連覇したあとも、強力な投手陣で'84、'86、'91年と3度リーグを制し、'84年には日本一にもなった。この3回のシリーズはいずれももつれ、すべて7戦('86年は8戦)まで戦われた。
「広島のケンカいうたら、とるかとられるか、どっちかしかないんで」
広島を舞台にした名作『仁義なき戦い』の中で主人公役の菅原文太はそういい放ったが、カープの日本シリーズはその言葉を体現したような激しい戦いだった。それを経験した者たちからしたら、「3位で喜んでもらっては困るんじゃ」とすごみたくもなるだろう。
険しいなりにも日本シリーズへの道が見えかけてきた年に、過去の戦いぶりを顧みる意味は小さくない。
阪急の打撃練習は「ポンポン、よう飛んどった」。
「打撃練習を見たらいかん」
達川光男はコーチからそう指示されていた。1984年のカープの相手、阪急ブレーブスは福本豊、簑田浩二、松永浩美などベテラン、中堅、若手がかみ合った打線が強力だった。打撃練習を見たら自信を失う。そんな配慮である。
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photograph by Masahiro Nagatomo