だがその窮屈さをものともせず、多くの韓国人フットボーラーは
イルボン=日本を新天地に選んできた。創立20周年を迎えたJリーグで、
先人たちが歩んだ道をなぞりつつ、新たな地平を切り開く
23歳の若者、三者三様の奮闘記。
忘れられない言葉がある。Jリーグ初の韓国人選手である盧廷潤(ノ・ジョンユン)の言葉だ。ジーコやリネカーなど大物外国人との対決を求めて、大学卒業後の1993年に来日した彼は言った。
「失敗したら二度と韓国には戻れない。そんな覚悟で日本の土を踏んだ。何しろ韓国では裏切り者と罵られていたから」
当時は日韓関係が今よりも険悪で、韓国では“日本サッカーは格下”と見なす時代だった。盧廷潤の年俸は大物外国人より格段に安く、新婚の妻と広島市内のスーパーのタイムセールに通って生活費を切り詰めながら年俸の多くを両親に仕送りしていたが、「金のために日本に媚を売るのか」とも罵られたという。
洪明甫が訴え続けたのは、徹底した勝負根性と自己犠牲の精神。
この盧廷潤が韓国人Jリーガー第1世代とすれば、'96年以降に来日した高正云(コ・ジョンウン)、黄善洪(ファン・ソンホン)、河錫舟(ハ・ソクチュ)、柳想鐵(ユ・サンチョル)、崔龍洙(チェ・ヨンス)らは第2世代と言える。Kリーグで実績を積み、韓国代表の主軸でもあった彼らは、高額年俸に加え専任通訳、住居、高級車も用意されるなど、待遇も良かった。'02年W杯共催の友好ムードもあって、その動向は韓国でも詳細に報じられた。
彼らがチームに与える影響も絶大だった。代表的なのが、柏レイソルでキャプテンを務めた洪明甫(ホン・ミョンボ)だ。「日本人選手は勝敗に対して淡白すぎるし、個人主義で人任せなところがある」と言っていた彼は、徹底した勝負根性と自己犠牲の精神を訴え続け、大事な試合前になるとチームメイトを行きつけの焼肉屋に集めて、自腹を切って決起集会を開くこともあった。本人は「割り勘文化に馴染めなかった」と謙遜していたが、洪明甫は韓国人選手がその存在感でチームに好影響をもたらすことを示した、最初の成功例でもあった。
「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています