甲子園の風BACK NUMBER
「甲子園出場後、4人が東大に進んだ」国立高校の“文武両道伝説”は真実か? 野球部では“昭和の猛練習”「勉強はそれほど…自由な学校でしたから」
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渋谷淳Jun Shibuya
photograph bySankei Shimbun
posted2026/08/21 11:11
1980年、都立高校として初めて甲子園出場の切符をつかんだ国立高校。快挙のウラには“昭和の猛練習”があった
1年生の段階で市川は投手と野手の二刀流だったが、自分がエースになるという決意に揺るぎはなかった。監督が掲げるエースの条件の一つが連投に耐えうる体を作ること。複数の投手が分業する現在では考えられないが、エースが一つの大会を一人で投げ抜くのが当たり前の時代だった。
「練習では200球以上、普通に投げていました。2年生からは真っすぐだけで300球という練習を始めました。計算したんですよ。試合前の練習で50球くらい投げる。イニング間の投球練習で8球、9回まで投げると計72球、これだけで122球です。試合で100球投げるとすると、全部で200球を超えます。ましてや延長戦になればもっと投げる。じゃあ300球くらい投げないとダメだなと。監督から300球投げろと指示されたわけじゃないですけど、『勝つためには8、9回にどれだけちゃんとした球を投げられるか大事だ』とはよく言われていました。自分も『どうやったら私立に勝てるんだろう』と、そればかり考えていて、そうした中から300球という練習も出てきました」
「カーブを投げられるとだれも打てない」
根性としか形容できないような理不尽な練習もあったが、メンバーのだれもが頭の中で「どうすれば勝てるのか」を考え続けていた。チームとして目指したのは守りの野球だ。市川という好投手がいたからこそのチーム作りとも言えるが、そうせざるを得ない事情もあった。
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「学校の校庭は野球部以外にサッカー、ラグビー、ハンドボール、陸上が使いますから、バッティング練習の時間は限られます。日にちと時間を決めてやってましたけど、いかんせん少ない。バッティングができる日でも、日によっては一人3本打って終わり。だから守備練習ばかりやってました。いろいろな部が使うからグラウンドの状態もよくない。そうした中で野手はとにかく前に落としてしっかり送球する。あとはバントと選球眼。ツーストライクからのスクイズは当たり前にやってました」
当時、国立にはピッチングマシーンがなかった。となると選手たちがバッティングピッチャーを務めることになるのだが、変化球をまともに投げられる選手はあまりいなかった。市川は「言っていいか分からないですけど、カーブを投げられるとだれも打てない」と笑う。まったく打てないわけではなかったが、変化球を打つ練習をほとんどできなかったのだから無理もない。そういう意味でも堅守は必然だったのである。

