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天才少年扱いが一転「平均的。全然ダメ」な中学~高1だったが…高2でJリーグ内定「オファー、本当に来た」W杯日本代表DF鈴木淳之介が覚醒した夏
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佐藤景Kei Sato
photograph byKiichi Matsumoto,Yohei Osada/AFLO
posted2026/06/13 17:01
鈴木淳之介は帝京大可児高2年生時にJリーグ湘南内定をつかんだ
守備のマルチロールプレーヤーとなった淳之介は、所属するコペンハーゲンではサイドバックとしてもプレーし、日本代表でもセンターバックのほか、左ウイングバックでもプレーする。一方、山ノ内も同様に複数の守備的なポジションでプレーする選手だが、「淳之介のプレーから学ぶところもある」と話す。良い関係が今でも続いている。
淳之介、山ノ内の2人がともにプレーしたフジパンカップ決勝は、先制するも追いつかれ、再び突き放したものの、後半、現在名古屋でプレーする甲田英將に決められて2-2の同点にされた。延長戦でも決着がつかずにPK戦に突入。先攻のDIVINEは1人目のキッカーを務めた山ノ内がGKに止められ、2人目の淳之介が左に外してしまう。そして名古屋グランパスU-12は2人が決め、結局DIVINEは涙をのむことになった。奇しくもこのPK戦でミスをした2人が、その後、プロ選手になった。あのとき流した涙が、それぞれの道でプロの門を叩くための、避けられない通過点となったのかもしれない。
中学~高1の頃「平均的な選手」「全然ダメ」
小学生時代、東海地区で有数の選手に成長した淳之介は、中学進学と同時に「スポーツクラブ岐阜VAMOS」に加入する。順風満帆で進学したはずだったが、待っていたのは初めての挫折だった。
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「小学校の頃は体格的にも大きい方だったのでプレーが通用していましたが、中学では伸び悩んで、思うようなプレーができない時間が続きました。正直、中学時代は自分の中で『平均的な選手』になってしまったという印象が強いです」
持ち味を発揮できず、ポジションもトップ下からボランチへと下がった。華やかなチャンスメイクではなく、攻守のバランスを整える「8番」でプレーする役割を担うようになった。当時のチームには、淳之介よりも技術的に目立ち、華やかなパスを通す堀響(VAMOS→長崎総科大附)という選手がいた。
「相方の方がボールに触る回数も多くて、オシャレなプレーをしていた。そこはちょっと悔しさもあったかもしれない」
中学3年生になり、身長は伸びたが、本人からすると、最後まで目立つ存在ではなかった。それでも卒業後は高校サッカーの名門、帝京大可児高校に進学する。ただ、ここでもやはり、スタートから苦労を味わうことになる。
「同い年のレベルであれば、ある程度はできるんですけど、上の世代と一緒にプレーすると全然ダメでした。当時はとにかく走れない選手だったと思います」
挫折とまでは言わないが、入学当初の淳之介は自身の力を出すことができなかった。より正確に記すなら、まだ能力を解放する準備が整っていなかった。
ベルマーレがお前のことを気にしているぞ
そんな状況が一変したのは、コロナ禍で学校が休校になり、部活動がストップしたことがきっかけだった。

