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「やり切って終われていない」男子バレー“大人気エース”がビーチバレーに転向した真相「身体が壊れた状態でした」石島雄介が明かす“その後の苦悩”
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吉田亜衣Ai Yoshida
photograph byToshiya Kondo/Wataru Sato
posted2026/06/12 11:01
男子バレー16年ぶりの五輪出場にも大きく貢献した石島雄介。その後のビーチ転向の真実とは?
Vリーグ優勝の立役者になった石島は2006年春、日本代表入りを果たした。監督として植田辰哉氏がチームを率い、主将に荻野正二、齋藤信治、津曲勝利が大黒柱としてチームを支えていた。石島は越川優らとともに活躍が期待される若手メンバーとして加わる。そして瞬く間に、日本代表チームの起爆剤として石島は中心選手となった。2008年北京五輪出場を目標に掲げた植田ジャパンは、日本で開催された北京五輪世界最終予選での死闘を制し、16年間閉ざされていた五輪への扉をチーム一丸となって開けてみせた。
「僕も含めて、当時のメンバーは個性的だったので最初、チームはバラバラだったと思います。でも北京五輪に出るんだと植田さんがずっと言い続けて、最初はみんな半信半疑だったんですけど、最終的には絶対に行くんだとみんなの気持ちがまとまっていった。やっぱりキャプテンの荻野さん、齋藤さん、津曲さんというベテランの存在、求心力は大きかった。僕らみたいな一番下の選手はその背中を見たら、ついていくしかないですから」
「身体が壊れた状態でした」北京五輪後の真実
24歳で初めての五輪を経験。ブラジルのプロチームに期間限定で移籍し、海外挑戦というかねてからの夢も叶えた。4年後のロンドン五輪では、経験や年齢を踏まえてピークを持っていきたいと考えていた。
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「そう思っていたんですけど、福澤(達哉)や清水(邦広)らが中心になっていて、僕は主力から外れました。なかなか難しかったですね。というか、もったいなかったな。元々ケガは多かったんですけど、当時365日中、休みは本当に数日しかなかった。休みの日もフィジカルトレーニングに打ち込んでいたので。身体が壊れた状態でした」
それでも、石島はまだまだ自分は上手くなれると思っていた。それは在籍していた堺ブレイザーズでも同じ気持ちだった。
「僕自身は選手としてパフォーマンスを上げて、いい結果を残すことに重きを置いているので、チームに長く居続けることがステータスではないんですよ。チームの構想としては、どんどん若手を起用したいですよね。自分が必要とされていないなと思った瞬間、自分の気持ちも次へシフトしました。だから、やり切って終わったかと言ったら、終われていない。フラストレーションが強かったと思うんですよね。自分の中でもうひとつ燃えるものを作りたい。一か八かやるしかなかった」


