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「プロ野球引退“3年後”に貯金ゼロに…」大金を失い、会社員生活を経て…元中日・前原博之の“引退後”「フリーターがいきなり大仕事を」コーチ打診の電話
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKYODO
posted2026/03/29 11:03
1993年、巨人・槙原の暴投で生還する中日・前原博之
「心のなかで『絶対おかしいぞ。こんな状態が続くわけがない』と感じていました。いつかクビになるとわかっていたんで、契約金の1000万円は全て住宅ローンに充て、給料の大半は貯金に回しました」
高木政権2年目、中日は12年ぶりにBクラスに転落し、監督、コーチ陣は揃って退団。だが、前原は球団職員として雇用され、小学生の選抜チーム「ドラゴンズジュニア」の監督に就任した。
「普通なら、そのまま球団から去りますよね。代表が気を遣って、ポストを用意してくれたんです。何百回も野球教室で教えていたので、すんなり入って行けました」
新聞販売店を開業するまで
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このオフ、谷繁元信兼任監督、落合博満GMが誕生。これが前原の運命を変える。本社からコストカットを要請された落合GMは選手やコーチだけでなく、球団職員の給与も削減。前原は年俸360万円で暮らすことを余儀なくされた。
「生活できないですよ。はははは(笑)。嫌な役目を引き受けるのは落合さんしかいなかったのでしょう。落合さんが監督時代、コーチの給料を引き上げてくれ、僕もその恩恵に与りましたから、感謝しています。ただ、この額だと厳しい。当時は自分の親からお金を借りていましたし、妻は弁護士事務所の事務職員として働きに出るようになりました」
ドラゴンズジュニアの監督時代、東海地方の少年野球を視察し、高橋宏斗(中日/WBC日本代表)をスカウトしている。
「当時、肩かヒジを痛めていて、お父さんから『ピッチャーはやめてほしい』という要望があったので、ショートで取りました。野球の勘が優れていて、人に言われなくても自分で気付ける子でした。性格的には、おとなしかったですね。ジュニアの監督はいろんな子どもを見られて楽しかったのですが、給料がさらに下がるという噂を聞いて、退社を申し出ました」
前原は2年間の球団職員生活に自らピリオドを打ち、48歳で一念発起。見ず知らずの新しい業界への挑戦を決意する。それが、新聞販売店だった。
〈つづく〉

