- #1
- #2
プロ野球PRESSBACK NUMBER
中日二軍で壮絶な練習…寮で「死亡説」が流れた“ある選手”「それほど追い詰められているように…」野村克也から絶賛されるまで「前原1人にやられた」
posted2026/03/28 11:02
中日で活躍した元プロ野球選手、前原博之58歳
text by

岡野誠Makoto Okano
photograph by
NumberWeb
「将来の夢はプログラマーでした。兄貴もその道に進んだし、小学生の時から家でパソコンを使っていたので、県立岐阜商業の情報処理科に入りました。プロの世界から声が掛かるなんて考えられなかったし、通用するとも思えなかった」
桑田・清原と同学年…中日に入団
桑田真澄、清原和博と同世代の前原博之は岐阜商業3年の時、練習試合でPL学園と対戦。サードを守りながら、レベルの違いを痛感していた。
「0対15で負けました。めちゃくちゃ強かったですよ。清原の打球が三遊間に飛んで来たけど、速すぎて一歩も動けなかった。桑田のカーブはフォークのように落ちて、キャッチャーが補れず、振り逃げで出塁できました。手も足も出なかったけど、ランナー二塁の場面で、ツーベースを打てたんですよ。1点入ると思ったら、走者がホームで刺されていた。どれだけ速い中継プレーだったのか(笑)」
ADVERTISEMENT
前原は県大会で打率.520をマークし、甲子園に出場。チームは初戦で敗れたが、85年秋のドラフトで中日から5位指名を受け、契約金2500万円、年俸360万円で入団した。
「プロ入りは実力じゃなくて、運ですね。当時、東邦の選手を取るか、僕にするか迷ったらしいです。でも、県大会の2回戦で優勝候補の岐阜第一と当たった時、スカウトの水谷(啓昭)さんが偶然、観に来ていた。その試合で、6打数5安打と打ちまくった。印象に強く残り、指名に至ったそうです」
二軍の猛練習「“死亡説”が流れた…」
3年目、星野仙一監督の発案で藤王康晴、神山一義らとともにアメリカの1Aに留学。5年目には自己最多の45試合に出場した。期待は高かったが、レギュラーを脅かすような存在にはなれない。翌年、福田功二軍監督は“未完の大器”にこう告げた。

