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プロ野球PRESSBACK NUMBER
広岡達朗が語った“原爆の恐ろしさ”「広島のビルの壁には人間の跡がそのまま…」94歳を迎えた名将の“壮絶な戦争体験”「あの日、私は呉にいた」
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2026/02/09 17:00
西武監督時代の1982年、地元・呉市の家族の墓前で夫人とともに優勝報告をする広岡達朗
原爆投下、あの日の記憶
季節は夏だった。
テレビのニュースでは原爆ドームが映し出され、平和記念式典が報じられていた。
――昭和20年8月6日、あの日あなたは、どこで何をしていたのですか?
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広島に原爆が投下されたとき、広岡は13歳だった。
「あの日、私は呉にいた。あのときは中学2年生だね。空襲警報のときには防空壕に入っていたから、原爆がどんなものなのかは、私は知らない。解除になって外に出たら、もくもくと白い煙が上がっていた。“広島の火薬庫が爆発したのかな?”、その程度に考えていたんだね。そうしたら、やがて雨が降ってきたから急いで校舎に入った。それがいわゆる《黒い雨》だった」
――黒い雨を浴びたのですか?
「浴びた。浴びたけど、ずっと浴び続けるようなことはしていない。すぐに校舎に入って雨を避けたんだよ」
まさか、広岡も黒い雨を浴びていたとは思わなかった。回顧談はなおも続く。
「私は、原爆の怖さをよく知っている。戦後しばらくしてスポーツが復活したとき、広島商業と対外試合をすることになった。広島市内に行ったら一面の焼け野原。何も残っていなかった。ビルの壁には人間の跡がそのまま焼きついていた。本当の怖さを知っているのは、私らの世代が最後じゃないのかな」
ここまでまったくよどみなく会話が続けられた。少年の日の衝撃的な記憶は、90代を迎えてもなお生々しく焼きついていた。ここからしばらく、彼の独壇場となった。
「戦争はよくない。でも、何だかんだ言っても、始めたからには勝たないとダメ。インチキしてでも勝たなくちゃダメ。仲のいい友だちが目の前で死んだらね、きれいごとなんか言っていられないよ。誰だって、“こん畜生”ってなるよ」
野球では決して不正を許さない広岡も、戦争ではインチキを是認していた。
心のスイッチを気にする必要など何もなかった。しばらくの間、刺激的な時間が続いた。「1978年のスワローズ」とはまったく関係なかったけれど、そんなことはどうでもよかった。広岡が発する言葉をただ聞いているだけで、それでよかった。
<続く>
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