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プロ野球PRESSBACK NUMBER
広岡達朗が語った“原爆の恐ろしさ”「広島のビルの壁には人間の跡がそのまま…」94歳を迎えた名将の“壮絶な戦争体験”「あの日、私は呉にいた」
posted2026/02/09 17:00
西武監督時代の1982年、地元・呉市の家族の墓前で夫人とともに優勝報告をする広岡達朗
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
「クールで厳格な人」世間のイメージとの乖離
集中的に広岡達朗への取材を始めて1年が経過しようとしていた。
週に1回程度電話をかけ、「1978年のヤクルトスワローズ」について話を聞いてきた。プロローグで述べたように、スムーズにやり取りが進むこともあれば、まったく話が噛み合わずに、「今日は難しそうだ……」と、早々に断念することもあった。
何度、こちらの名前を告げてもまったく覚えていなかった。それでも、電話を切る際には必ず、広岡は言った。
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「人間は一生、勉強だよ。いくら勉強しても、終わりがない。あなたも頑張りなさい。何かわからないことがあれば、いつでも電話をしてきなさい」
思うようなインタビューができずに落胆していても、この言葉を聞くと勇気づけられるような気がした。その言葉はとても温かく、世間で言われている「クールで厳格な人」というイメージは皆無だった。
日を改めて電話をかける。当然のように自己紹介から始まった。
「あなたは私に会ったことがあるの?」
毎回のようにそう聞かれたので、そのたびに「コロナ禍以前には、ご自宅にお邪魔して何度かお会いしました」と告げても、「そうだったかな?」と、受話器の向こうで首を傾げている姿が目に浮かぶようだった。そんなやり取りを経てから取材が始まるのが常だった。心のスイッチが入らないとき、私は意図的に「昔のこと」を尋ねるようにしていた。
彼が読売ジャイアンツに在籍していた頃の思い出話は、こちらが尋ねなくてもいつも話題に上った。川上哲治に対する複雑な心情については、何度も何度も聞いていた。だから、広島・呉で過ごした彼の少年時代について尋ねることも多かった。
耳が遠いため、質問内容を伝えるのには難儀したが、一度理解すると、信じられないぐらい饒舌に少年時代の思い出話が披露されることになった。
「私は広島の呉で育った。青い海には軍艦が浮かんでいる。父は一兵卒から始まり、機関長にまでなった。呉の町では我が家は海軍エリート一家として知られていたんだ」
