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「立場が変わっても、朗希は高校時代のまま」ドジャース・佐々木朗希が同級生と“軟式野球”をした秘話…岩手大会決勝で先発した“もう一人の主役”の今
posted2025/09/26 11:05
2019年夏、佐々木朗希に代わって先発した大船渡・柴田貴広のインタビュー(第3回)
text by

佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
L)Kiichi Matsumoto、R)Asami Enomoto
◆◆◆
あの日、なぜ自分が先発だったのか?
なぜ、決勝戦の先発マウンドを託されたのか。岩手大会で1度も登板のなかった自分がなぜ? 柴田さんは“あの夏”から6年経った今も、その答えを知らない。正確に言えば、國保陽平監督に尋ねるタイミングを逸したままでいる。
「決勝が終わってからは、お互いが大変だったので……。監督は学校への対応で追われていて、そこまでゆっくりと話す機会がなかったんです。大学(大東文化大)に進んだ後に『調子はどうなんだ?』みたいな会話をすることはありましたが、あの時の話はしていないです。別にあらためて聞くことでもないかな、って」
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準決勝まで中2日で計323球を投げていた佐々木の肩肘は、そこまでボロボロの状態だったのか。その答えも分からない。あの日、右腕はブルペンを含めて1球も投げることなく、打者としてバットを振ることもなかった。奮闘するチームメートの姿を、ベンチの“定位置”だった2列目の一番端の席から祈るように見つめていた。
「そこの部分は正直、メンバー全員が察知できていなかったと思います。前日に160km近い球を投げていたし、みんな決勝も投げると思っていた。痛いとか、辛いとかいう言葉も聞きませんでした。
朗希は昔から弱音を吐いたり愚痴を言うことはなかった。自分の体のことは自分で察知して、危ないと思ったら投げない。小中学校の時に、成長痛で肩とか肘とかを痛めて投げられないという苦労をしてきたと聞いたので、それもあって意識が高かったのだと思います。体のことは監督とだけ、密に話をしていた。だから自分たちのところまでは(情報が)おりてこなかったんです」
あの夏から6年「決勝の話はあまりしない」
決勝戦後、大船渡市の高台にある静かな公立高校には“嵐”が上陸した。「佐々木朗希を起用せず敗れた」という事象は、野球界を飛び越えて日本中の議論の種になっていた。当時の報道によると、学校には2日間で250件を超えるクレームの電話が殺到し、パトカーが出動する騒ぎも起きた。一方で、“登場人物”である選手たちは、その試合について皆で語り合うこともなく、翌日から高校生の日常生活に引き戻されていた。


