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「桑田真澄がそんなこと言うはずない(笑)」あのPLを破って優勝した取手二・木内幸男マジックの“裏側”から「41年間甲子園出場なし」の現在
posted2025/08/26 06:30
1984年の優勝記念碑と、当時の優勝メンバーで現在監督を務める下田和彦
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph by
Katsuharu Uchida
1984年の優勝メンバーだった下田和彦は今、監督として母校の指揮を執っている。彼らは今も親しみを込めて木内監督を「じいさん」と呼ぶ。
「桑田(真澄)が試合後に『関東の横綱ってこんなもんですか』と言ったことを記者から伝え聞きました。桑田がそんなこと言うはずないじゃないですか(笑)。じいさんが記者に作り話を言わせたんです」
下田監督は当時を振り返る。1984年夏の甲子園決勝でPL学園を破る2カ月前、取手二は招待試合で同じPL学園に0対13と大敗していた。木内監督はその完敗を逆に利用。選手のプライドを刺激するために、桑田真澄の発言をでっち上げたというのだ。
全国優勝へ導いた"木内マジック"の裏側
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「こちらは『クソッ!』ってなるじゃないですか。あれからみんなの意識が変わりました」
下田は、木内監督の采配を「雀鬼」の異名を持つ伝説の雀士・桜井章一になぞらえる。
「本当の勝負師ですよね。私も監督をして分かりましたが、他の指導者では絶対にあり得ない勝ち方なんです。本当に流れを読むスペシャリストで、桜井章一と同じように、最終的には勝つことに全てをかけた人だと思います」
当時の取手二のグラウンドには、室内練習場もなく、ウエイト器具代わりに電車の車輪が4輪無造作に置かれているだけだった。その環境から全国制覇を成し遂げたチームの戦いぶりは、高校野球ファンに衝撃を与えた。
それから41年の時が流れ、現在の取手二高は少子化の影響もあり、部員数は14人。新チームは2年生が2人で1年生が12人という状況だ。「野球の上手い中学生は私学に進む」という厳しい現実もある。
「こうして今、母校に携われているのも、木内幸男のお陰だと思っています。このチームをもう一度勝たせて、取手を元気にしたいという思いが強いです」
恩師は2020年11月、89歳でこの世を去った。下田は「今頃、天国で『あの下田が監督か。ガハハッ!』って笑っていると思うよ」と語る。スカイブルーのユニホームは甲子園でこそ映える。取手二の栄光の秘話と現在の奮闘ぶりは、本編で詳しく描かれている。
〈つづく〉
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