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「ちょっと部屋来い!」本塁打王確定も星野監督から飛び蹴り…山崎武司が明かす“天才と凡人の差”「(福留)孝介は怖がってなかった」
text by

間淳Jun Aida
photograph byMakoto Kemizaki/Takuya Sugiyama
posted2025/06/08 11:03

中日時代の星野仙一監督と福留孝介。山崎武司が見た“凡人との差”とは
「本当の超一流選手と、自分のようにジェットコースターみたいな成績の選手の違いは福留孝介を見て感じました。自分は本塁打を39本打ったら、翌年以降に30本くらい打てればよいと考えていました。ところが、孝介は常に現状よりも高い数字を目指します。キープではなく進化を追い求めていました。自分との差に後から気付きました」
福留はプロ4年目の2002年に首位打者を獲得し、2005年には打率.328でリーグ2位の成績を残した。だが、全く満足していなかったという。
山崎がその凄みを語る。
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「孝介は〈打率3割2分、3分では物足りない、3割5分打ちたい〉と口にしていました。キャンプやオープン戦では、そんな打ち方では絶対に打てないという方法も試して、進化の可能性を模索していましたね。今までと違う新しい打ち方をすると、元に戻せなくなるかもしれない怖さがあります。それでも、孝介は変化を怖がっていませんでした。天才と凡人の違いです」
では楽天に行って、山崎は何が変わったのか
山崎が変化を取り入れたのは、楽天に加入した2005年だった。この時、36歳。成績は下降線をたどり、誰もがユニホームを脱ぐのは時間の問題だと思っていた。本人も「現役最後の1年にする」と決めていた。
「もう選手として終わっていたので、何でもやろうと。失うものはないですから。このままではダメなのは分かっていたので、何かを変えてみようと思いました。そうしたら、今までにない感覚を掴みました」
山崎は当時、軸足に体重を残さず、いわゆる突っ込む打ち方をしていた。投手寄りで球を捉えて飛距離を出せるメリットがある一方、年齢による反射神経の衰えでボール球を見極められなくなる弱点も感じていた。当時チームを指揮した田尾安志には「ポイントを捕手寄りにして、体が前に行かないフォームに修正しよう」と指摘された。
若い頃なら、その言葉を聞き流していただろう。ただ、「最後の1年」と位置付けていた山崎は素直に聞き入れた。構えた時のスタンスを広くして軸足に体重を残し、パワーではなく体の回転で打球を飛ばす考え方と体の使い方に転換した。打撃フォームの改造は成功。118試合に出場で打率.266、25本塁打、65打点と打線を引っ張った。
オヤジ(野村)と出会って、分析するように
翌年は本塁打19本と数字を下げたが、楽天3年目の2007年、ついに過去の自分を超えた。43本塁打、108打点と自己最多記録を更新し、二冠王に輝いた。39歳で、史上3人目となるセ、パ両リーグでの本塁打王を達成した。山崎自身でさえも予想していなかった復活劇。田尾から監督のバトンを受けた野村克也から学んだ配球を打席で生かした。
「中日で本塁打王を獲った時、なぜ打てたのか分からなかったことが、その後に低迷した原因です。本能のままバットを振っているだけでした。オヤジ(野村)と出会って、打てた理由も打てなかった理由も分析するようになりました。原因が分かれば、対処法を考えられます」
中日時代は監督に言われるがまま20キロ減量し、天性の飛距離で本塁打のタイトルを手にした。楽天では指揮官の言葉を咀嚼して進化に変え、自己最高成績を残した。11年の時を経て、山崎は頭脳が本能を超えると証明したのだった。〈第1回からつづく〉

