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「恐怖というか、絶望を感じた」羽生結弦がいま明かす「どん底を何度も見てきた」スケート人生「自分にはもう伸びしろがないのかと…」《NumberTV》
posted2025/05/22 11:07

羽生結弦がNumberTVで「どん底を何度も見てきた」という自らのスケート人生について明かした
text by

松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
Kiichi Matsumoto
【初出:発売中のNumber1120号[挫折地点を語る]羽生結弦「恐怖と絶望に襲われても」】
「どん底を何度も見てきた」
オリンピックでの2大会連続金メダルをはじめ、輝かしい実績を築いた競技選手時代。その経験を糧にプロフィギュアスケーターとなった今日も、羽生結弦はいっそうの輝きを放っている。一見、華麗に彩られたスケート人生だが、本人は「どん底を何度も何度も見てきました」と語る。
「スケートが続けられるか、続けられないか。そうした事態に見舞われることが非常に多かったです」
その中で、いちばん辛かったのは「小学生のとき」だと言う。
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「そもそも自分は最初から勝てていた人間ではなくて、記憶の中ではスケートを始めてからなかなか優勝できなかったんですね。その中で初めて全日本という冠がつく大会に出て、優勝できたのが9歳(小学4年)のときでした」
それは2004年10月の全日本ノービス選手権だ。完璧な滑を披露してタイトルを手にすると、翌々月、初めての国際大会となるフィンランドの試合でも優勝。「自信に満ちあふれていた」と当時を振り返る。
「恐怖というか、絶望を感じた」
広がる未来を100%信じて過ごしたシーズン。だが、その道のりは思いもよらず暗転する。フィンランドの大会直後、練習拠点だった地元・仙台のリンクが経営難により閉鎖したのだ。スケートが続けられる場を求めて他のクラブに移ったが、指導者が変わり、通う距離も大幅に伸びたことから、練習時間と密度は格段に減った。
「自分はジャンプが2回転半、3回転ぎりぎりの状態なのに、周りの子たちは3回転をがんがん跳べるようになっていく。自分が取り残されていく。限られた環境の中でどんなに頑張っても転落していくのが悔しかったし、恐怖というか、自分にはもう伸びしろがないのかと絶望を感じました」
小学6年生の10月まで続いたという、先の見えない暗闇。そこから立ち直る契機も、環境にあった。閉鎖されたリンクが営業を再開し、より練習に打ち込めるようになると同時に、スケートの基礎を教えてくれた 以前の先生の弟子にあたるコーチに師事するようになった。すると瞬く間に3回転ジャンプを安定して跳べるようになった。
「現状に甘んじないで一歩踏み出すことが大事なんだと感じましたし、小さい頃に教えていただいて、徹底して練習してきた基礎がその時の自分と結びついた。ただ努力しても伸びるわけじゃないんだ、自分に合うメソッドがあるんだと思いました」
怪我との戦い
もう一つ、羽生がどん底を見た経験として口にするのは、怪我との闘いだ。
「怪我をして練習ができなくなって、筋力が落ち、怪我した部位がさらに痛み......と、口にしてこなかった、 一つの怪我で振り出しに戻るどころかマイナスになる、という経験をしてきました」
例にあげたのは、17年11月、NHK杯の公式練習での負傷だ。のちに「右足関節外側靱帯損傷」と発表された。重傷だった。
<後編に続く>

【番組を見る】NumberTV「#21 羽生結弦 あの光景を、脳裏に焼き付けて。」はこちらからご覧いただけます。
