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「家賃を払うのが精一杯でした」Vリーグを辞めた西堀健実が浅尾美和と出会うまでの“壮絶な生活”…「西堀ツインズ」と注目を浴びた裏の葛藤
posted2025/05/22 11:01

西堀健実さん(Biid株式会社所属)のNumberWebインタビュー第2回/ウエア提供 ウィルソン
text by

吉田亜衣Ai Yoshida
photograph by
Shiro Miyake
◆◆◆
1981年8月20日、16時32分、西堀健実は長野県中野市で誕生した。その4分後には、双子の妹・育実が生まれた。健実と育実は、「西堀ツインズ」と呼ばれ、当時のバレーボール界では稀な才能を発揮し注目されていた。元実業団選手だった母の指導の下、小学校では全国大会で優勝候補にあげられる強豪チームに入った。
「家の中には天井からボールが吊るされてあって、練習から帰ってきても家でスパイク練習が続くんです。たまには友達と遊びたくて放課後、漢字の勉強をするふりをして教室に居残っていると、母が教室まで入ってきてそのまま練習に連れていかれました。全国大会の試合で私のプレーが不甲斐なくて、何もできなくて負けてしまったときは、ベンチでお尻を叩かれたり、負けた後はみんなの前で一人怒られたり。母は一人前の選手として成長してほしかったんだと思います」
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ベスト8で敗退し日本一にはなれなかった。西堀は今度こそ、日本一になるために妹とともに長野県の名門中学校の門をくぐった。そうして中学3年のときに悲願の日本一へ。この頃から「バレーボール日本代表に入りたい」という強い思いが芽生え始めた。
「妹のバーターで入学したようなもの。それでも…」
けれども次第に、同じ身長なのにセッターである妹のほうが将来を期待されるようになった。
「高校はいろいろ見学しに行きましたが、日本代表で活躍する先輩方がたくさんいた古川商業高(現古川学園)でバレーがしたいと思いました。イク(妹)の入部が先に決まっていて、アタッカーで身長が低い私はコートに立てないかも、と言われました。だから、いわゆる妹の『バーター』で入学したようなものなんです。それでもいいから、ここでバレーがやりたいと思いました」
だからこそ、必死に食らいついた。妹よりも一足先にコートに立った西堀は、高校1年からライトアタッカーとして活躍。高校2年時の春の高校バレーで優勝、高校3年のインターハイ、国体(現国スポ)でも頂点に立ち、三冠に輝いた。そうして再び進路を決める時期を迎えた。
「この頃からイクは代表に入るだろう、と言われていて、当時のVリーグチームからの誘いも引く手数多。私は周囲から大学に進学して教諭を目指したら? と言われて。まだまだ自分はできると思っていたのでちょっと悔しかったです」