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「140kmも出なくなって…」95年ヤクルト“最強ローテ”の山部太がサイドスロー転向で見せた意地…1年だけの輝きの後に「細く長く、よくやったな」
text by

二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byHideki Sugiyama
posted2025/05/10 11:04
現在はスワローズの編成部でプロスカウトを務める山部。チームカラーに合う選手を再生させる目利きには定評がある
ピッチングマシーンという表現は決してマイナスな意味ではない。古田への絶大な信頼を示すものであり、キャリアを重ねるにつれてその意図を明確に理解できるようになった。答え合わせができるから「楽しんで」という感覚になったのだ。
「もちろん自分にも配球の考えがあって“次はこの球”と思うときがあります。でももしそれが古田さんのサインと違っていても、古田さんの言うことに間違いはないのでそのとおりに迷わず投げます。これは僕だけじゃなく、みんなそうだったはず。
それに95年のときなんて、クイックをやっているピッチャーなんてほぼいない時代。それでもランナーは古田さんの肩があるから走ってこない。あの人がどれだけ凄かったかってことです」
やるべきことはすべてやった
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輝きが持続しないのも、どこか山部らしい。多少無理を承知で投げた反動もあってか2004、2005年は打ち込まれることも多くなり、2006年シーズンを最後に35歳で引退を決断する。最後はもう一度オーバーハンドに戻したが、輝きを取り戻すことはなかった。それでもやるべきことはすべてやった現役人生だった。
「95年のころなんて全部目いっぱい投げてましたから、そりゃあ体に負担が掛かりますよ。2003年のころみたいに七分目、八分目で投げるってことを早くに覚えていれば、もっと野球を理解して投げていれば(その後の)キャリアも変わっていたのかもしれません。欲を言えば95年みたいなシーズンを2〜3年続けたかった。まあでも体は限界でした。細く長くではあっても、よくやったなという思いがありました」
セカンドキャリアに活きたこと
光は一瞬で、むしろ陰が長かったプロ13年間ではあった。だがその経験があるからこそ、引退後のキャリアに活きることになる。そのまま球団に残って二軍投手コーチ兼コンディショニングコーチとなり、村中恭兵、増渕竜義、佐藤由規、赤川克紀といった高校生ドラ1組の育成にあたる。選手の才能を伸ばしていく作業は「やり甲斐しかなかった」と山部は語る。

