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ヤクルト「1995年だけの左腕エース」山部太の伝説…愛媛のソフトボール少年がセンバツ優勝宇和島東を倒してドラフト候補も「プロには興味なかった」
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二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byKoji Asakura
posted2025/05/10 11:02
1993年のドラフト1位でヤクルトに入団した山部太。95年に16勝と鮮烈な活躍を見せたが、その後長く故障と戦った男の野球人生を聞いた
愛媛のソフトボール少年だった
野球王国と呼ばれた愛媛県の出身。小学生のころ宇和海に面したみかんと漁業の町、地元の八幡浜ではソフトボールに熱中した。ただピッチャーではなくファースト。中学の軟式野球部で念願のピッチャーになったとはいえ、こちらも補欠止まりである。ドラ1の片鱗はまだ奥のほうに眠っていた。
引退後も球団に残り、現在は編成部に所属する山部は当時をこう振り返る。
「自分がプロになったときに中学時代に教えてくれた部の先生に対して“どうして使わなかったんだ”みたいな声があったらしいんです。それは申し訳なかったなって。だって本当にヘタクソでしたから。それはもう誰が見ても使わないですよ。
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(上達したのは)高校に入ってから。身長が伸びて力も強くなりました。遠投で90m以上投げたときに自分でも“おっ”と思ったんですよね」
進学したのは河埜和正(巨人)、敬幸(南海、ダイエー)兄弟をプロに輩出した八幡浜工業。貴重なサウスポーであり、監督が「お前なら1年からピッチャーで試合に出られる」と太鼓判を押してくれたことも高校選びの決め手になった。
1年秋からエースとなり、体が大きくなるにつれて球速も一気に伸びていく。強豪ひしめく愛媛県内でも注目を集めるようになる。
強豪・宇和島東戦での熱投
高校時代、最大のトピックとなったのが高3時、1988年の甲子園県予選だ。準決勝まで勝ち進み、待っていたのが「牛鬼打線」で高校野球ファンを沸かせ、その年のセンバツを優勝した宇和島東であった。
「宇和島東と戦いたいってみんな思っていたんですよ。前年の1回戦でサヨナラ負けした悔しい思い出があって、センバツに優勝してからは全国から強豪校が練習試合に来るから、僕たちとも全然試合やってくれなくて、そういった意味でもコノヤローと(笑)。借りを返すぞってみんな団結していました」
6回表に3点を奪いながらも7回裏に4失点を喫する。それでも味方が食らいついて8回表に同点に追いつき、4-4のまま延長戦に突入した。


