Number ExBACK NUMBER

「あの時も、やるしかなかった」浅田真央がいま明かす21歳の全日本選手権「母が亡くなったことが現実なのか受け止めきれていなくて…」《NumberTV》

posted2025/05/08 11:04

 
「あの時も、やるしかなかった」浅田真央がいま明かす21歳の全日本選手権「母が亡くなったことが現実なのか受け止めきれていなくて…」《NumberTV》<Number Web> photograph by Asami Enomoto

浅田真央がNumberTVで自らの「挫折地点」について明かした

text by

野口美惠

野口美惠Yoshie Noguchi

PROFILE

photograph by

Asami Enomoto

 競技者の枠を超え、日本中から愛されたスケーター・浅田真央。「一番のどん底」と語るのは、あの五輪での記憶だった。「Sports Graphic Number×Lemino」制作のドキュメンタリー番組NumberTVから特別記事を掲載する。<全2回の前編/後編も公開中>

山あり谷ありのスケート人生

「やるしかなかった」

 インタビュー中、すべてのエピソードに出てきたのがこの言葉だった。いち競技者としてだけでなく、国民から愛され、時代を牽引してきた宿命のスケーター浅田真央。「挫折の瞬間はあったか」と問いかけると、こう返ってきた。

「山あり谷ありのスケート人生。今思えば『あれは挫折だったのかな』と思う瞬間はあります。でも当時はそんなこと考えていたらやっていけません。自分の思いの強さで突っ走ってきた、という感じでした」

ADVERTISEMENT

 そんな浅田が「あの時も、やるしかなかったんです」と改めて振り返ったのは、21歳で迎えた11年の全日本選手権だ。

 その冬、浅田は3年ぶりにGPファイナルに進出し、試合会場であるカナダのケベックシティに到着した。しかし長く闘病していた母の急変の報を受け、緊急帰国。最期の瞬間には間に合わなかった。

「母はずっと病気と闘っていたのですが、その1年前くらいから『私の病気のことで、真央や舞のやりたいことが出来なくなるのが、一番嫌。自分のやるべきことはやってね』と言っていたんです。だからGPファイナルは出られずに帰ってきたけれど、全日本選手権は出ようと決めました」

 全日本選手権は、わずか2週間後だった。

「帰国から3日後には練習を再開していました。その時はまだ、母が亡くなったことが現実なのかも受け止めきれていなくて、考える余裕もないし、考えない。とにかく『やるべきことをやる』だけでした」

 誰もが棄権すると思っていたその大会で、浅田は5度目となる日本一に。フリーでは『愛の夢』の舞を天国に捧げた。

「スケートがあったから精神的に強くいられたと思います。滑っている時はプライベートのことを一切忘れられる。あの時期、スケートにはすごく助けてもらいました」

子供の頃は「ずっと姉がライバル」

 母と姉との3人が一体となってスケートにすべてを捧げてきた家族だった。姉は、そのスタートに欠かせない存在だった。

「子供の頃は、ずっと姉がライバルでした。もう毎日『舞に勝ちたい』という感じで練習していましたね。2歳差なのですが、最初の大会は同じ級で出て、私が6位で、姉が4位だったかな。そこで“姉に負けた”ことからスケート人生が始まりました」

 その悔しさから、自分だけの武器を磨こうと切磋琢磨していく。

後編に続く>

関連記事

#浅田真央
#浅田舞
#ソチ五輪
#オリンピック・パラリンピック

フィギュアスケートの前後の記事

ページトップ