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「授業後ラモスらと紅白戦」15歳でプロ、40年前の天才高校生・菊原志郎が“最強”読売クラブで過ごした青春時代「しかも…中央大に現役合格する秀才」
text by

杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byJ.LEAGUE
posted2025/03/16 17:02

ヴェルディ川崎時代の菊原志郎(1993年)
菊原は一気にブレイクしたわけではない。高校2年生、3年生の時期はブラジル出身や代表レベルの選手たちの高い壁に阻まれ、出場機会をつかめなかった。同世代のタレントたちが高校選手権で脚光を浴びるなか、代表クラスが集まるトップチームでもまれ、うまくなりたい一心だけで練習に打ち込んでいた。
同時に、隙間の時間には大学受験に向けて勉学にも励んだ。学校が長期の休みに入れば、代々木ゼミナールや河合塾の講習、模試へ。予備校にも通いつつ、一般入試で中央大学経済学部二部に現役合格した。すでにサッカーでサラリーを得ていたが、ここでも父の教えはしっかり守った。
「『日本は学歴社会だから大学くらいは出ておきなさい』と言われていたんです。トップチームにいるのでテスト休みなんて取れませんし、結構、大変でしたよ。高校自体の学力も高くなかったので、自力で勉強しました」
現役大学生の衝撃初ゴール
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“天才”とも呼ばれたが、サッカーも勉強も地道にコツコツと努力を続けてきたタイプ。そして、長い下積みが実るのは、大学生との二足のわらじを履き始めたばかりの頃。1988年4月10日、約2年ぶりに出場した日本リーグで躍動する。デビュー戦と同じフジタ工業の猛者たちを手玉に取り、閑散とする国立競技場で1ゴール1アシストをマークした。
「初ゴールは覚えていますよ。ドリブルで1人、2人と抜き、ペナルティーエリアに入っていったんです。小学生の頃に空手でつかんだ距離感は、ずっと生きていましたね。最後は切り返して、利き足の右とは逆で決めました。当時、左足のキックはよく練習していたので。ここに蹴れば、GKは取れないというコースだったはずです。あれは自信になりましたね」
菊原の本格的なキャリアは、ここから始まった。
黄金期の読売クラブで主力メンバーになると、ラモスらとともに南米の香りが漂う奔放なサッカーを謳歌。私生活も忙しかった。ブランド物の服を着て、夜の街に繰り出したわけではない。練習が終われば、夕方から電車とバスを乗り継いで中央大の多摩キャンパスへ。出席カードに「菊原志郎」の名前を書き込み、夜間部の授業を受けた。
自宅に戻ってくるのは23時過ぎ。遊んでいる暇などない。必死にレポートを仕上げ、必死に単位を修得した。夜は静かな大学生活を送りながら、学年を重ねるごとに昼間のピッチでは目立つようになっていく。
21歳になったばかりの頃、ついに日本代表に選出される。1990年7月にダイナスティカップの中国戦で代表デビューを果たすと、続く9月のアジア競技大会にも名を連ねた。