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「スーパーサッカー」が28年で幕 元番組Pが語っていた「徳永英明・加藤浩次をMCに抜擢したワケ」
posted2021/02/16 18:00
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph by
TBS Television
Jリーグが開幕した1993年、「スーパーサッカー」がスタートした。それから27年間、Jリーグとともに歩みをつづけ、スポーツ報道の視座を維持しながら企画でも魅せる番組作りで多くのサッカーファンに愛され、今なお支持されている。
幾多の番組終了の危機を乗り越え、今も走り続ける「スーパーサッカー」の歴史とその魅力について、25年間、番組に携わり、プロデューサーでもあった名鏡康夫氏に話を聞いた。
――スーパーサッカーが誕生した経緯を教えてください。
「1993年5月15日、Jリーグの開幕日に『速報Jリーグ』という番組をスタートさせたんです。これは簡単にいうとプロ野球ニュースのサッカー版みたいなもので深夜枠だったのですが、Jリーグブームに乗って非常に好評だったんです。
ただ関東ローカルだったので、それを全国区にしようということで10月に誕生したのが『ネスレ・スーパーサッカー・Jリーグエクスプレス』です。生島ヒロシさん、西田ひかるさん、金田喜稔さんでスタートしたのが『スーパーサッカー』のはじまりですね」
――いい流れに乗ってスタートしたのですね。
「いや、実はそうでもなくて……(苦笑)。全国ネットになったんですが、スポンサー(ネスレ日本)が1社提供になり、代理店主導になったんですよ。それで新しいプロダクションが入ってきて、バラエティな要素が主流になり、番組がかき乱されて……自分たちの意図する番組じゃなくなって僕らは腐っていました。
実際、1回目のゲストにリネカーを呼んだんですけど、内容がサッパリで、それを見ていたチェアマンの川淵(三郎)さんが『なんだ、この番組は!』と怒ったというのが聞こえてきましたからね」
企画が二転三転した草創期。
――何がさっぱりだったのですか。
「新しいプロダクションが持ってきたバラエティ企画が『ビートたけしのスーパースター列伝』というコーナーだったんです。ペレやベッケンバウアーとか往年の名選手について山際淳司さんと語り合うというものだったんですが、面白くなくて、視聴率的にも苦戦したんです。
それで1994年の頭にテコ入れしようということになって、そのコーナーを『ビートたけしのサッカー小僧』というタイトルにして、たけしさんとうちの渡辺真理アナ、金田さんの3人でサッカーのFKの面白さとか、そういうのを見せていくものに切り替えたんです。そのコーナーの評判が良くて、徐々に視聴率も良くなっていきました。その矢先にたけしさんがバイクの事故を起こして……。どうしようかとなって、試合VTRを軸とした今の『スーパーサッカー』の形になっていったんです」