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壮絶がん闘病中に“電流爆破”を…53歳で死去・西村修はなぜリングに立とうとしたのか?「まだ、やり残したことがある」カメラマンが最後に話した日
posted2025/03/02 17:00

西村修は2月28日、53歳の生涯を閉じた。真面目に真剣にプロレスと向き合った男だった。2024年8月27日撮影
text by

原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
食道から脳にまで転移したがんと闘っていた西村修が、2月28日に都内の病院で死去した。53歳だった。
若き西村修は「心の優しい真面目な選手」だった
レスラーのデビュー戦を見る機会はそんなにない。今でこそ後楽園ホールでのデビュー戦というケースも増えたけれど、かつてデビュー戦は地方で行われることが多かったから、遭遇する機会は稀だった。
西村の試合を見たのは1991年4月21日、沖縄県糸満市の体育館だった。飯塚孝之と戦ったが、これが西村のデビュー戦だった。いいドロップキックを放つ細い選手という印象だった。私はその時たまたま新日本プロレスの1週間ほどの沖縄遠征についていって、藤波辰爾を撮ったり、アントニオ猪木らと海岸で焼肉大会をしたりしていた。
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デビュー戦を見たせいか、西村に愛着がわいた。西村は真剣にプロレスに取り組む、心の優しい真面目な選手だった。
西村は1993年、アメリカに渡るとフロリダのヒロ・マツダの所で修行した。カール・ゴッチ、オランダのクリス・ドールマン、アマリロのドリー・ファンク・ジュニア、英国の「蛇の穴」ビリー・ライレー・ジムなどで、強さとクラシカルなテクニックをストイックに追い求めた。
1995年、西村は伝統的なプロレスへの回帰を掲げる藤波の興行「無我」に旗揚げから参戦し、次第に独特の境地へと入っていく。
そんな西村に1998年、最初のがんが見つかった。手術したが、その後は化学療法に頼らず、自らの選択で漢方や食事療法で病気を切り抜けた。
西村は2000年にリング復帰を果たし、フロリダ州タンパに住み始めた。2001年には藤波と組んでIWGPタッグ王者になった。
2004年1月4日、鈴木みのると東京ドームで「ゴッチイズム追求マッチ」を戦った。この前後は藤波、中邑真輔、天山広吉らと印象深い試合の記憶がある。全日本プロレスのリングでは川田利明の三冠王座にも挑戦した。