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壮絶がん闘病中に“電流爆破”を…53歳で死去・西村修はなぜリングに立とうとしたのか?「まだ、やり残したことがある」カメラマンが最後に話した日 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2025/03/02 17:00

壮絶がん闘病中に“電流爆破”を…53歳で死去・西村修はなぜリングに立とうとしたのか?「まだ、やり残したことがある」カメラマンが最後に話した日<Number Web> photograph by Essei Hara

西村修は2月28日、53歳の生涯を閉じた。真面目に真剣にプロレスと向き合った男だった。2024年8月27日撮影

 2006年、西村は新日本プロレスを退団し、本格的に「無我」の世界に入っていく。だが、翌年には突然、征矢学を連れて無我を出ていき、全日本プロレスに入団するという行動に出た。

 2010年には政治家を志す。参議院議員にはなれなかったが、地元で文京区議となり、食育を掲げて給食の課題にも取り組んできた。

がんに蝕まれながら「まだ、やり残したことがある」

 西村と成田空港でばったり出会ったのは2001年だったと思う。ユナイテッド航空のラウンジに入ると、西村がいた。私はフランクフルト行きで西村はニューヨーク行きだった。待ち時間は互いに1時間くらいあったが、話は治癒した病気の自然療法のことと、残りはずっとマイレージプログラムのことだった。西村は「マイル中毒」と言っていいくらい、マイル集めに熱心だった。

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「どのくらい貯まっているんですか」と聞かれたので「200万くらい」と答えると、西村はうらやましそうな顔をした。私は毎年15回以上、日本とヨーロッパを往復していた。格安チケットでも十分なマイルが貯まる時代だった。同じスターアライアンスというグループだったが、西村はユナイテッド航空の1Kというトップのステイタスを持っていた。私の方はルフトハンザドイツ航空のライフタイムというもので、「死ぬまで消えないよ」と言ったらすごく興味を示した。「マイル集めは本当に病気ですよ」と笑っていた。

 最後に西村と話したのは昨年8月の富士通スタジアム川崎(旧・川崎球場)での有刺鉄線電流爆破マッチの数日後、池袋だった。がんがかなり進行しているのは聞いていたが、見た目は大病を患っているようには見えなかった。

 体調は日々変わり、記憶が飛んだり、けいれんを起こすこともあったという。それでも、いや、だからあえて、西村はプロレスのリングに立とうとした。残された人生を強く生きる。「まだ、やり残したことがある」と言って。

 ドリーとの写真が、西村を撮った最後になってしまった。

【次ページ】 「人間は、諦めたらおわり」西村修のメッセージ

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