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「寝室のベッドで初めて泣いた」中村俊輔が中3で経験した“最初にして最大の挫折”とは…「絶望ってこういうことなんだなって」《NumberTV》

posted2025/02/27 11:06

 
「寝室のベッドで初めて泣いた」中村俊輔が中3で経験した“最初にして最大の挫折”とは…「絶望ってこういうことなんだなって」《NumberTV》<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

サッカー日本代表の10番、ファンタジスタとして世界を魅了した中村俊輔がNumberTVで自らの「挫折地点」を明かした

text by

二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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photograph by

Takuya Sugiyama

 長く世界を魅了したファンタジスタ・中村俊輔の成長力は、 道を絶たれ、涙に暮れたあのとき培われていた。「Sports Graphic Number×Lemino」制作のドキュメンタリー番組NumberTVから特別記事を掲載する。<全2回の前編/後編へ>

中3で経験した最初で最大の挫折

 左足から繰り出されるまばゆい輝きは、苦境に屈しない反骨によって生み出されたものだ。サッカー日本代表の10番を長らく背負ったファンタジスタ。狂おしいほどの挫折なくして中村俊輔という希代のフットボーラーは形成されなかった。

 最初にして最大の「挫折地点」は日産FC/横浜マリノスジュニアユースの中3時代にある。体は小さくともプレーに優れている自負はあっただけにユースに昇格できない現実はあまりにショックだった。

「中3になって試合に出られないなんて想定していなかった。初めてのベンチ外もあったなかでチームは日本クラブジュニアユースを優勝。試合に出られないのにユースに上がれるわけがない。でもクラブの人から(昇格できないと)伝えられたとき、寝室のベッドで初めて泣いたことは今も覚えている。順調に歩んでいたと思っていたのに、その道がバスッと切られたように思えた。絶望ってこういうことなんだなって」

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 チームは高円宮杯の予選で敗れてしまったため夏で解散。進路をどうしていいか分からず、サッカーをする場もない。中村少年は途方に暮れた。しかし立ち止まったのは一瞬。当時まだ全国的に無名に近いサッカーの新鋭校だった桐光学園に自ら練習参加し、進学を決める。そして昇格できなかったのは自分の実力が伴っていなかったからと断じ、己と向き合う日々が始まった。

「空き地でずっと練習していた。子供のころに良くやっていた壁当てとか、初心に戻るみたいな感じで。中3なりにいろんなことを考えて、行動して、こうやればこう伸びるみたいなものが出来上がった。努力の質を上げていく自分流の自主練というものを、ここで覚えた気がする」

 道をバスッと切られて落とされた谷から必死にはい上がろうとしたなかで、自分を高めるノウハウを探り当てることができた。桐光学園に進学してからもその経験が活きる。1年時はボール拾いなど雑用に追われるため、朝7時から誰もいないグラウンドで練習した。全体練習後の居残りも監督が照明を消すまでやっている。サッカーノートを書く習慣がついたのもこのころだ。身長が急激に伸び始め、体の成長とともに飛躍的にレベルアップを遂げて国体選抜、高校選抜に選ばれ、注目を浴びる世代の中心選手となっていった。

実践、分析、改善のトライアングル

「選抜の経験もそうだし、高2から高3にかけてプロの練習に参加させてもらったことも大きかった。あの中3の挫折があったから実践、分析、改善のトライアングルが自分のなかで身についた。

 これは(横浜)マリノスに入ってからも同じ。居残り練習は禁止されていたけど、夕方に誰もいなくなったグラウンドでホペイロの人に付き合ってもらってボールを蹴っていた。自分が足りないものに対してこれくらいやればどれだけ身につくかも大体つかめていたとは思う」

 自ら編み出した“成長トライアングル”によって2000年には史上最年少の22歳でJリーグMVPに輝き、その後レッジーナ、セルティック、エスパニョールと欧州で7年半にわたってプレー。日本代表では勝利なしに終わったドイツワールドカップの悔しさを晴らすべく、南アフリカ大会に全精力を注ぎ込んでいく。だが、ここでもう一つの大きな挫折に直面することになる。

<後編に続く>

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