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日本人F1ドライバーはなぜ勝てない? 国別ドライバー輩出数では歴代10位も、いまだ未勝利の理由をあらためて検証する
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尾張正博Masahiro Owari
photograph byGetty Images
posted2025/02/21 17:00
1987年のロータス・ホンダを駆る中嶋悟。日本人として初めてF1にフル参戦し、レースでの最高位は4位だった
中嶋悟が日本人初のフル参戦ドライバーになった87年以降の日本人F1ドライバーの所属先はロータス、ラルース、ティレル、ミナルディ、ジョーダン、B.A.R(前身はティレル)、ザウバー、アルファタウリ(前身はミナルディ)などで、そのほとんどが小規模なチームや数年後にF1活動を休止したチームだった。
在籍した年に優勝したマシンのステアリングを握ることができたのは、わずか2人。76年に星野一義が乗ったティレルと、87年に中嶋悟が駆ったロータスだけ。しかも、そのとき優勝したのはジョディ・シェクターとアイルトン・セナという後にチャンピオンとなる逸材だったことを考えると、同じシーズンに星野と中嶋が勝つのは容易なことではなかった。
日本人にも優勝できるマシンに乗るチャンスがなかったわけではない。佐藤琢磨が所属していたB.A.Rをホンダが買収した06年だ。しかし、ホンダはドライバーのラインアップから琢磨を外した。するとその年のハンガリーGPでホンダが優勝。移籍したスーパーアグリのモーターホームでホンダを祝福する琢磨の表情はいまも忘れられない。
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その3年後の09年には、トヨタが勝てるポテンシャルがあるマシンを有していた。しかし、トヨタが育成していた小林可夢偉にチャンスは与えられず、テストドライバーとしてシーズンを終えようとしていた。そんな矢先、レギュラードライバーのティモ・グロックが事故で負傷。可夢偉は残り2戦でF1に出場し、印象的な走りを披露した。いよいよ日本人がF1で勝てる時が訪れるかと思ったが、トヨタは09年限りでF1から撤退し、またもチャンスは失われた。
角田裕毅の現状と可能性
そして、角田だ。ホンダとレッドブルによって育成された角田は、21年にアルファタウリからF1にデビュー。しかし、その21年限りでホンダはF1からの撤退を表明。ホンダはレッドブルとアルファタウリ(現・レーシングブルズ)のためにパワーユニットを製造し続けたが、両者の関係に微妙な風が吹き始める。
撤退発表から2年後の23年、ホンダはレッドブルと袂を分かち、26年からF1に復帰することを発表。それにより、レッドブルが積極的に角田を起用する理由はなくなった。24年末にレッドブルを離脱したセルジオ・ペレスのシートを角田が得られなかった理由はホンダとレッドブルの関係性だけではないが、ホンダが21年に撤退せずレッドブルとともにF1で成功し続けていれば、角田にはいまとは違う未来が待っていたかもしれない。
いまF1に再びジャパン・パワーが到来しようとしている。ホンダは26年からアストンマーティンと組んでF1に復帰。トヨタは世界一速いクルマに乗るというドライバーの夢をサポートすることを正式に表明し、昨年からハースと業務提携を開始した。
F1を去った琢磨と可夢偉は、その後それぞれインディ500とル・マン24時間を制した。日本人がF1で勝てない理由はない。


