酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
91歳で死去「阪神OBの辛口解説よっさん」「じつはジャイアント馬場の初対戦相手」身長165cm、日本一監督だけでない…吉田義男“ホンマな記録”
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広尾晃Kou Hiroo
photograph byKazuhito Yamada
posted2025/02/06 06:00
阪神監督時代の吉田義男。91年の人生を振り返ると非常に興味深いエピソードがある
阪神の先発、ジーン・バッキーが王貞治にビーンボールを投げたのをきっかけに、両軍選手がマウンド付近で乱闘騒ぎになった、世に言う「荒川バッキー乱闘事件」だ。合気道の腕に覚えのある巨人の荒川博コーチがバッキーを蹴り上げ、荒川コーチの頭を殴打したバッキーは指を骨折して選手生命を絶たれてしまったのだが、このとき、阪神勢で果敢にベンチを飛び出していったのが吉田だった。ひときわ小さな体で、大男ぞろいの巨人選手の中に飛び込んでいった。
その光景を夜のスポーツニュースで見たと記憶するが――吉田の気の強さには驚いたものだ。
じつは“ジャイアント馬場と30センチ超”対決していた
吉田は打者としても優秀で、盗塁王2回、最多安打1回、3割は1回だけだが、打撃10傑に5回入っている。ベストナインは9回を数える。
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同世代の大投手、金田正一にめっぽう強く、通算328打数95安打8本塁打、打率.290。吉田の通算本塁打は66本だが、その1割以上を金田から打っている。引退してから巨人-阪神のOB戦でも吉田は金田相手に痛打している。金田は吉田の「顔を見るのも嫌だった」という。
実は吉田は、ジャイアント馬場こと巨人軍投手・馬場正平が一軍で最初に対戦した打者でもある。1957年8月25日の甲子園での巨人戦の8回、4番手で登板した馬場は、1番遊撃手の吉田を遊ゴロに打ち取っている。身長差およそ30cm。吉田は記者に「2階から落ちてくるようやった」と語っている。
引退後は阪神で兼任コーチ、監督を務めるとともに、解説者としても活躍した。
吉田義男は生粋の京都人であり、その解説は一見穏やかに見えて辛口だった。
「あの内野ゴロは、ファインプレーのように見えますが、打球の飛ぶ方向を考えてもうちょっと右寄りに守っていたら、普通に捕れたと思うんです。別に普通のプレーとちがうか思いますけどね」
京都訛りで淡々と批判したものだ。
85年の日本一…岡田采配にも継承されていた?
その点、同じ関西人でも兵庫県尼崎出身の村山実はもっとあけすけだった。
「いや、あの選手は私が監督やったとき、全然言うこと聞かへんかったんですわ。今の監督になったらこの調子でがんばりよる。なんで私の時に同じようにせえへんかってんて、思いますねえ」
「今の監督」とは、吉田義男だ。昭和の終わりころのタイガースには「吉田派と村山派」があると言われていたが、そのせめぎあいの中で1985年の「あの優勝」を迎える。

