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「誰がエラそうにぬかしとんじゃ!」楽天初代監督が明かす“ブチギレ事件”「オリックスが1時間半も遅れて…」楽天初期のゴタゴタ「オレを地獄に落とすつもりか?」
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byJIJI PRESS
posted2025/01/19 11:00
2005年4月、試合前のグラウンドに姿を見せ、田尾安志監督と握手する三木谷浩史オーナー
「ほんとに軽い感じで言われたんです。『いやいや、俺を地獄に落とすつもりか?』と返しましたよ。確実に最下位になる監督をやったら、どこから何を言われるかわからない。でも、女房に相談したら『パパ、こんなチャンスないよ』と言われて、とりあえず話を聞いてみました。ただ、後日マーティから提示された年俸が、これまた安い。『いや、今でもそれぐらいは稼いでるよ』と一度は断ったんです。そしたら、その日の夕方に電話がきて、条件が倍に上がっていました」
その後、田尾氏は監督就任を応諾し、三木谷浩史オーナーと顔を合わせることになる。当時、オーナーは39歳だった。
「ずいぶん若いオーナーだなと思いました。顔合わせの際、僕は『ユニフォームに企業名を入れないのはどうですか?』と提案したんです。MLBでは、企業名を載せないじゃないですか。ああいうのがかっこいいなと思ってね。オーナーも『それはいいですね』と乗り気で、さすが若いオーナーは柔軟で話を聞いてくれるんだなと思ったものです。でも、いざ完成したユニフォームにはバッチリ『楽天(RAKUTEN)』と書いてましたね。この行き違いが最初の『あれ?』でした」
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企業名のアリナシは序章に過ぎなかった。以降、オーナーやフロント、現場との間で意見の噛み合わなさが露呈していくのである。
「誰がエラそうにぬかしとんじゃ!」
田尾氏が監督に就任してからは、怒涛のスケジュールだった。分配ドラフト(11月8日)、秋季練習(11月13日~)、ドラフト会議(11月17日)など立て続けにこなさねばならなかったからだ。
「分配ドラフトでは、オリックスが最初に25人を選ぶのですが、当日になっても、リストをなかなか出してこない。向こうは、いい選手25人を先に取れるんだから、すでに決まってるはず。でも、会場のホテルに入ってから、1時間半も待たされたんです。僕はその日、ラジオの仕事が夕方にあったんですが、その席にいた藤瀬史朗(当時のバファローズの管理部長、田尾氏とは同級生)から『お前こんな大事なときに、仕事があるんか?』と言われてね。それで僕、頭にきて『誰が偉そうにぬかしとんじゃ! 1時間半も遅らせて何言うとんじゃ!』と返したんです。僕は頭にくると関西弁になるんですよ。あれはなんだったのか未だにわかりません」
戦力外投手「年俸500万円でもいいから…」
ドラフト会議も含めた選手獲得もドタバタだった。田尾氏の同志社大学の後輩で、トヨタ自動車に所属していた平石洋介氏をドラ7で指名したが、これには裏話がある。