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「周囲は猛反対だった…」159cm佐野優子が“世界一のリベロ”になるために決断した海外移籍「石川君たちのように…女子もやっと増えてきた」
posted2024/07/24 11:02
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph by
AFLO
佐野優子が初めて日本代表に選出されたのは2002年。だが04年のアテネ五輪では五輪予選の前にメンバーから落選した。そこから、どのように世界一のリベロへと駆け上がったのだろうか。
きっかけは海外移籍だった。
佐野は所属していた東レアローズを退社し、04-05シーズンにフランス・RCカンヌに移籍した。その後、久光製薬スプリングスを経て再び海外へ。アゼルバイジャン、トルコ、スイスと渡り歩いた。海外に根を張って長くプレーした初めての日本人選手だ。
海外でプレーしたいと考えるようになったきっかけは、02年世界選手権だったと振り返る。
「やめておいたほうがいい」周囲は猛反対
「ドイツで開催されたんですけど、ボロ負けで予選敗退でした。自分自身のプレーも全然伴っていなくて、ボロボロになって、本当に何もできずに帰ってきました。その後東レに戻って国内でリーグをやる中で、『海外のチームとやる感覚と全然違うな』と感じたんです。対日本人ならできても……。『自分が苦手なのはこういう球じゃないんだよな』って。
次の年また代表に選ばれたんですが、海外の選手のボールが来た時に不安で不安で。最初から最後まで不安の中で試合をしていた。だから『このまま日本にいても苦手意識は克服できへん』と。海外の選手相手にずっと試合をするしかないと思って、海外一択で考えるようになりました」
2003年、東レを退社した。
「若かったから。あとさき考えずに動いちゃいましたね」と苦笑する。
当時は海外でプレーするハードルが今よりずっと高かった。「海外に行きたい」という希望を表明しても、好意的に受け取られることは少なく、周囲から猛反対された。
「途中で帰ってきたり、給料も未払いだったり、問題が多いからやめておいたほうがいいよ」と忠告もされた。